静まり返る朝の事務所にて
朝8時半。いつもならドアの開閉音と「おはようございます」の声が聞こえてくる時間。けれど今日は違う。事務員さんが有休を取っているだけで、こんなにも空気が変わるのかと、妙に感心してしまう。机にカバンを置き、湯を沸かして一人でコーヒーを淹れる。しんとした空間にカップの置かれる音だけがやけに響いて、自分の存在が浮いているように感じる。司法書士という仕事は、一見すると淡々と進むルーティンのように見えるが、そこに「人の気配」があるかどうかで、こんなにも気分が違う。静けさがありがたかったはずなのに、今日はその静けさがやけに寂しい。
出勤しても「おはよう」が返ってこない
「おはようございます」と声をかけても、誰もいない。当然、返事はない。それが分かっているのに、口に出してしまう自分がなんだか滑稽だ。いつもは当たり前に交わしている挨拶が、どれほど自分にとって日常の支えになっていたか、そんなことを考える。人と話すことが仕事ではあるのに、こんな日には人恋しさがこみ上げる。電話や来客がない限り、ずっと沈黙が続く。それなのに、なぜか独り言だけはやたらと増えている。ああ、声が返ってくるだけでいいのに。そんな小さなことすら、満たされないまま時間だけが過ぎていく。
事務員さんの有休、たったそれだけのことなのに
事務員さんが1日休むだけ。たったそれだけのことなのに、事務所の空気はこんなにも変わる。書類の山は同じように積まれているし、PCの画面もいつもと変わらずこちらを睨んでくる。でも、「一緒に働いている人がいる」という事実が、どれほど精神的に支えになっていたかは、いなくなってみて初めて気づく。たまに気を遣ってくれるあの一言や、お昼ごはんをどうするかの他愛ない会話。仕事の効率だけでは語れない「人との距離感」こそが、孤独な自営業者には必要なのかもしれない。
電話が鳴らないと、時間の流れが異様に遅く感じる
時計の針が止まっているのかと思うほど、時間の進みが遅く感じる日がある。電話が鳴らず、誰も訪ねてこない。事務員もいない。そんな日は特にそうだ。目の前の業務は確かに進んでいる。でも、心が置き去りにされているようで、どこか虚しい。司法書士としての仕事は、確かに独立して完結できるものが多い。それでも、誰かと関わり合いながらこなすことに意味があるのだと痛感する。静寂の中で鳴る心のざわめきは、思っていた以上に深い。
ひとり分の気配しかない空間
人の気配がしない空間というのは、想像以上に精神にくる。椅子の軋む音、書類をめくる音、キーボードを打つ音。それらが全て自分だけのものだと思うと、空間が広く感じるのではなく、逆に狭く、重くのしかかってくるように感じる。誰もいないのに、誰かが見ているような気がして、なぜか気が抜けない。ひとりの自由と孤独は、背中合わせなのだと痛感する。
話しかける相手がいないって、こんなにしんどい?
一日中、誰とも口をきかない。それは想像以上にしんどい。人と接するのが苦手で司法書士になった部分もあるのに、いざ誰もいないとなると、それはそれでつらい。昼休みに弁当を食べながらテレビを眺めても、心に何も残らない。話しかける相手がいないということは、感情の出しどころがなくなるということ。大した話じゃなくていい。ただ「今日は天気がいいですね」って言える相手がいるだけで、救われる日もある。
独り言をつぶやく自分にハッとする
「うーん、これはこうかな……」そんなふうに口に出している自分に気づいて、ふと恥ずかしくなることがある。誰に聞かせるでもない独り言。それは、自分の中の寂しさをごまかすための声なのかもしれない。以前はそんな自分を情けなく思ったが、最近では「それでも声があるほうがマシ」と開き直っている節もある。声を出すことで、自分の存在を確認している。独りでいる時間が長いほど、人は「音」を必要とするのだろう。
誰も見ていないけど、仕事はちゃんと進めているつもり
誰かに見られていなくても、自分は真面目に仕事している。そう思いたいし、実際にそうしている……はずだ。ただ、ふとした瞬間に「誰も見てないし、今日はこれくらいでいいか」と気が緩むこともある。人の目というのは、やはり一定の緊張感をもたらしてくれる。それがないと、どうしても自分への甘えが顔を出す。独立開業というのは、自由と同時に「誰も注意してくれない孤独」とも戦わなければならないのだ。
忙しさと孤独は共存する
予定表はびっしり埋まっているのに、心はすかすか。そんな日が増えた。タスクは多く、書類は山積み。にもかかわらず、「今日、誰ともまともに話してないな」と気づく瞬間がある。業務としての忙しさと、感情としての孤独は同時に存在する。働いているのに、なぜか満たされない。ひとりで仕事ができるというのは誇りでもあるけれど、同時にそれは「分かち合う誰か」がいないという現実でもある。
やることは山積みなのに、心が埋まらない
今日は10件近くの登記申請がある。電話もメールもひっきりなし。それでも、帰り際のコンビニでひとり夕飯を選ぶ瞬間に、心がすっと冷える。誰かに「今日、疲れたね」と言ってもらえるわけでもなく、ただ無言で弁当を温めて家に帰るだけ。がんばった日は、がんばったねって言ってほしい。大人だって、誰かにねぎらってほしい。そんな思いをぐっと飲み込んで、明日もまた「一人分の気配」で仕事をする。
「忙しい=充実」ではないことを知っている
以前は、「忙しくしていれば人生が充実している」と思っていた。でも今は違う。忙しさはただの作業量であって、心を満たしてくれるものではない。充実とは、「誰かと心を通わせる時間」の中にある。どんなに依頼があっても、それを共有する相手がいなければ、喜びは薄い。ひとりで完結する仕事だからこそ、意識的に誰かと繋がる時間を作らないと、気づいたときには自分の中身が空っぽになってしまう。
職業としての重み、生活としての軽さ
司法書士という肩書きは重い。責任も大きい。でも、その重みと裏腹に、生活はあまりにも軽く、淡々としている。朝は一人で目覚め、仕事をし、夜に一人で眠る。その繰り返し。誇れる職業であっても、私生活が空洞では、何かが欠けているように感じる。仕事がうまくいけばいくほど、その「空白」が際立つのがまた皮肉だ。
人の人生を預かる責任と、自分の生活の薄さ
登記や相続、成年後見。どれも人の人生に深く関わる仕事だ。自分の言葉や手続き一つで、誰かの人生の一部が動く。だからこそ真剣になるし、手を抜かない。でも、ふと立ち止まると「自分の人生は、いま、どうなってるんだ?」と問いかけたくなる。人の人生に寄り添うほど、自分の生活の輪郭が薄れていくような気がしてくる。
夕飯のスーパー惣菜に罪悪感を感じる日
疲れて帰る途中、つい寄ってしまうスーパー。惣菜コーナーで適当に選んだ揚げ物とサラダ。電子レンジで温めて食べながら、どこか虚しさが残る。こんな食生活でいいのか?誰かに栄養バランスを心配されることもないし、自分でももうどうでもよくなってきている。けれど、どこかで「これが一人暮らしの限界か」と、諦めと自嘲が入り混じる。
愚痴の行き場がないから、ここに書く
本当は、誰かに直接話せたら楽なのかもしれない。でも、そんな相手もいないし、話す場所もない。だから、こうして言葉にして吐き出す。誰かが読んでくれるだけで、少しだけ報われる気がする。司法書士としての現実を、少しだけ誰かと共有できたら、それだけでいい。そんな気持ちで今日も愚痴を綴る。
誰かと共感したい、それだけで救われる気がする
別に「がんばってるね」なんて言ってほしいわけじゃない。ただ、「わかるよ」と誰かに言ってもらえたら、それで救われる。人は共感によって孤独から少しずつ解放される。だから、この記事が誰かの心に届いて、「ああ、私も同じだ」と思ってもらえたなら、書いた意味があると思う。
孤独は、分け合えると少しだけ軽くなる
完全に消えることはない。でも、誰かと分け合えるだけで、孤独という荷物は少し軽くなる。だから、今日も一人で仕事をしながら、どこかで誰かが似たような気持ちで働いていることを信じている。司法書士である前に、人間として、ただ誰かと繋がっていたい。その気持ちを持ち続けながら、明日もまた静かな事務所に足を運ぶ。