今年も年賀状は来なかった──つながりが途切れていく感覚
司法書士として迎える静かな正月
年が明けても、特に何も変わらない。テレビでは華やかな特番が流れているが、こちらは朝から味気ないインスタントの味噌汁。年賀状が届くのを期待してポストを開けることもなくなった。独身で家族も遠く、連絡を取る友人もいない。そんな静けさが、年々重たくなっている。司法書士という職業柄、多くの人と関わっているはずなのに、私生活では妙に孤独なのだ。
ポストを開ける手が止まる朝
元日、郵便受けに手をかけたとき、ふと手が止まった。何も入っていない予感がしたからだ。昔は何通も届いていた年賀状。今では役所からの書類があるかどうかくらいしか気にしていない。それでも、ほんの少しだけ期待してしまう自分がいて、余計に虚しくなる。40代にもなると、友人も減り、付き合いも細っていく。そんな現実を、ポストの中身が突きつけてくる。
「明けましておめでとう」が業務連絡だけになった
年明け最初の「明けましておめでとうございます」は、事務員とのLINEだった。「今年もよろしくお願いします」と形式的なやり取り。そのあとに続くのは、登記案件の進捗報告や、司法書士会からの通知だけ。人間らしい言葉が、仕事の隙間から消えていっている。誰かと正月の話をすることもなく、ただ淡々と次の申請の準備をしている自分に気づいて、なんだかやるせなくなった。
年賀状のやりとりが減った理由
誰が悪いわけでもない。年賀状が減っていったのは、自然な流れだったのかもしれない。私自身も出さなくなった。「また来年もお願いします」と書きながら、本当に会うことのない相手ばかりだった。気づけば、作るのも、出すのも、億劫になっていた。
気づけば自分から送らなくなっていた
10年前までは、それでも律儀に年賀状を出していた。業界関係者や司法書士会の先輩後輩、数少ない友人にも。でも、年末の忙しさに追われ、「今年はまあいいか」と一度さぼった年から、だんだん出さなくなった。「出してない自分が悪い」と分かってはいるが、後悔するのは元日の朝だけで、すぐに忘れてしまう。そんなことを毎年繰り返している。
一枚一枚、言葉を選ぶ時間がしんどくなった
「今年も変わらぬお付き合いを」と書くと、嘘っぽく感じる。実際、去年1年で一度も会っていない相手に、それを書く意味が分からなくなった。私は文面にいちいち悩んでしまうタイプで、それが年賀状を遠ざけた要因でもある。出すなら、ちゃんとしたい。でも、その「ちゃんと」が重荷になってしまったのだ。
「いつも通り」の挨拶が虚しくなった
定型文だけの年賀状が、だんだん味気なく感じてきた。「謹賀新年」「本年もよろしくお願いします」。それを受け取って、何がうれしいのか分からなくなった。自分が出す立場でも、何を書けばいいか分からず、空白を埋めるだけの言葉になってしまう。そうして、書かなくなった。そして、返ってこなくなった。
途切れる人間関係、それでも仕事は続く
年賀状が来なくなったからといって、生活に支障はない。仕事はあるし、忙しい。でも、人間関係のひとつひとつが、気づかないうちに消えていく。その最初のサインが、年賀状だったのかもしれない。
会わなくなった依頼者、届かなくなった年賀状
昔、相続登記を手伝った高齢の依頼者から、丁寧な年賀状が届いていた。「今年もお元気で」と。何年か続いたが、ふと来なくなった。もしかしたら亡くなったのかもしれない。連絡を取る理由もないまま、そのまま関係が終わっていった。司法書士という職業は、関係の“最初と最後”だけに立ち会うことが多い。その間がないのが、やけに寂しく感じる。
年賀状が最後のつながりだった人たち
お互いに連絡先は知っている。でも、わざわざ電話するほどでもない。そんな関係の人たちと、年に一度だけつながる年賀状。それがなくなったとき、関係は自然消滅する。SNSもやらない私は、つながりを維持する手段が少ない。だからこそ、1枚のはがきに意味があった。けれど、それも今はもう、昔の話になりつつある。
年賀状文化の終焉と司法書士という職業
形式が重んじられる司法書士の仕事。だがその一方で、年賀状という“形式”すらも、自分の中ではもう機能していない。手間だけが残り、心は遠のいていくばかりだ。
形式と書類に追われる日々の中で
登記の申請書、委任状、本人確認資料…。私たち司法書士は、日々膨大な「形式」を扱っている。間違いが許されない仕事だからこそ、形式の意味をよく知っている。けれど、その形式が年賀状になると、急に“空っぽ”に思えてくる。文字通り「印刷された挨拶状」を見て、何も感じなくなったとき、自分の感覚が鈍っている気がして怖くなる。
人間関係の「証明」もなくなっていく
司法書士は証明する仕事だ。他人の権利関係を明らかにし、記録する。でも、自分の人間関係については、何も証明できない。年賀状が来ないという事実が、それを突きつけてくる。「誰かとつながっていた証拠が、もうないんだな」と。静かな元日、そんなことをぼんやり考えてしまう。
独身司法書士としての静けさを受け入れる
誰にも祝われない正月。気楽といえば気楽だ。でも、それが続くと、寂しさの方が勝ってくる。とはいえ、自分で選んだ道でもある。
誰にも気を遣わない正月と、誰にも祝われない正月
おせちも作らない、初詣も行かない、テレビも見ない。やることがない正月。気を遣う相手がいないのはラクだけど、「今年もよろしく」と言ってくれる人がいないのは、やっぱり寂しい。婚活なんてとっくにあきらめたし、かといって新しい出会いもない。事務員と「寒いですね」と交わす言葉だけが、人との接点になっている。そんな年明けを、今年も静かに過ごしている。