「自由業」という言葉の幻想
「司法書士って自由でいいですね」——そう言われることがある。確かに、組織に属さず、自分の裁量で動けるという意味では、自由業という肩書きに間違いはない。でも、ふたを開ければ、その「自由」は見せかけのもので、現実には不自由の連続だ。休日も予定も、すべては依頼人の事情次第。電話一本で今日の予定は崩れる。自由を手に入れた代わりに、全責任を背負わされた感じ。そんな毎日に、正直うんざりしている。
なぜ司法書士は自由に見えるのか?
一般の人にとって、司法書士は「先生」と呼ばれ、時間も仕事も自分で選べるような印象を持たれている。私も開業前は「これで自分のペースで働ける」と期待していた。しかし実際に始めてみると、案件の急な変更や、役所とのやり取り、登記申請の締切に追われ、全く思い通りにはいかない。事務員もひとりだけで、手が回らないときは全部自分で対応するしかないのだ。
外から見える「先生業」のイメージ
スーツを着て、印鑑を押して、書類を提出して…。他人から見れば、それなりに「格好良く」見えるらしい。でも実際は、古い書類を探してひたすらファイルをめくったり、補正対応で役所に何度も足を運んだり、地味な作業の繰り返しだ。むしろ事務員の方が現実的な働き方をしているように思える瞬間すらある。
自由な時間=暇ではない
「時間の自由がある」という言葉は、裏を返せば「時間のコントロールが効かない」ということでもある。仕事がなければ暇になるが、仕事が集中すれば平日・土日関係なく潰れる。先日は友人の結婚式の途中で補正の電話が鳴り、途中退席。自由業とは、一見カッコよく聞こえるけれど、結局は他人のスケジュールで動かされる仕事だと実感している。
自由に働けるはずが、現実は真逆
自由業を選んだつもりが、気がつけばどんどん自由を失っている。自分で選んで始めた仕事だけれど、もう「自分の自由な時間」なんて存在しないんじゃないかと思う瞬間もある。そもそも、自由を得るためには、自分の仕事を自分で回せるだけの「仕組み」と「余裕」が必要なのだ。
スケジュールは自分で決められない
一見、予定を自由に組めると思われがちだが、実際には顧客の希望が最優先だ。午前中にのんびり事務作業をしようと思っていたら、「午前中に書類取りに行きたいんですけど」と電話。午後は法務局に行く予定だったのに、午前中にずれ込むと全体が狂う。そして結局、昼食も取れず夕方までバタバタ。こんな毎日を「自由」とは到底呼べない。
急な登記、補正、提出期限…
「今日中にお願いできますか?」「至急で対応してもらえると助かります」——この言葉に何度振り回されたことか。登記関係の仕事は、急ぎの案件が多い。しかも、補正が発生するとさらに対応時間が伸びる。ギリギリのタイミングで依頼されると、ほかの案件も全部押されてしまう。自分の生活よりも、他人の都合が優先される仕事。それが現実だ。
「この日だけは休みたい」が通用しない
事前に「この日だけは予定を入れないぞ」と思っても、なぜかその日に限ってトラブルが起こる。以前、珍しく旅行を計画して、事務員にも前もって伝えていたのに、前日に「書類が戻ってきたので、明日提出しないといけない」と連絡が。結局キャンセル。楽しみにしていた分、精神的なダメージが倍増する。
地方ならではの「断りづらさ」
地方で事務所を構えていると、ご近所や知り合いからの依頼が増える。その中には「どうしても断りづらい案件」も含まれている。恩がある人だったり、紹介だったり。普通なら「忙しいので」と断るところを、つい受けてしまう。そしてそれが首を絞めるのだ。
ご近所付き合いと仕事の境界線
ご近所さんに「ちょっと相談があるんだけど」と声をかけられると、無下にはできない。特にお世話になっている人だったりすると、つい親身になってしまう。すると、気がつけば時間が奪われ、他の仕事が遅れる。感謝されることもあるが、「無料相談当たり前」みたいな空気になると正直つらい。
頼まれたら断れない人情プレッシャー
地方の人間関係は濃い。だからこそ、恩や義理に縛られる場面も多い。「この前助けてもらったから」「○○さんの紹介だから」——そういう空気に抗えず、つい仕事を引き受けてしまう。善意で動いたつもりが、あとで自分を苦しめる。自由業なのに、人に振り回されてばかりという皮肉。
自由業なのに、事務所に縛られる
働く場所の自由も、なかなか得られない。リモートで済ませられそうな案件も、結局「原本持参で」や「対面で」という話になり、事務所を離れられない。物理的な自由すら制限される現実がある。
結局、事務所を離れられない現実
たまにはカフェで仕事でもしようと思っても、「すぐに押印してもらえますか?」という電話一本で出勤確定。自宅や外では対応できない業務が多すぎる。司法書士の仕事はまだまだ「場所の制限」から解放されていないのが実情だ。
オンライン化の限界と書面主義
電子化が進んできたとはいえ、司法書士の世界はまだまだ紙が主流。印鑑、原本、郵送…このあたりのルールが変わらない限り、「完全オンライン勤務」なんて夢のまた夢。外出先でできるのはメールチェックくらいで、結局事務所に戻らないと何も進まない。
移動=仕事の中断というジレンマ
移動中に急ぎの連絡が来ても、対応できないことが多い。車を運転中で出られず、折り返すころには機を逸することもある。出先でパソコンを開いても、原本が手元にないと何もできない。「移動=ロス」という感覚が染みついてしまって、外出すら億劫になる。
一人で背負う責任の重さ
自由業という肩書きは、すべての責任を自分で背負うという意味でもある。気楽に見えるかもしれないが、誰かに任せられるわけでも、保険があるわけでもない。自分の判断がすべてで、その重みは日々肩にのしかかってくる。
自由に見えて「逃げ場がない」
会社員なら「上司に相談」「部下に任せる」があるけれど、自由業の私には逃げ場がない。全部が自分の責任。判断を誤れば信用が失われ、下手すれば損害賠償にもなる。ミスは許されない。誰にも相談できず、夜中に一人で悶々と悩むことも多い。
失敗できない職責とプレッシャー
登記や契約など、ミスひとつで依頼人に多大な損害が出る仕事をしている。自分の心身の調子にかかわらず、常に万全を求められるプレッシャーがある。病気になっても休めない。熱があっても出勤する。自由どころか、むしろ自分を縛る仕事に見えてくる。
誰にも相談できない孤独感
同業者とのつながりもあるにはあるが、競合関係でもある。愚痴も本音も言いづらい。事務員には話せない重い内容も多いし、結局は自分の中にため込むしかない。この孤独感も、「自由業」の代償なのかもしれない。
本当の「自由」とは何かを考える
ここまで自分の現実を書いてきて、「じゃあ自由ってなんだ?」と考えるようになった。時間や場所を選べることだけが自由じゃない。気持ちの余裕、選択肢、断れる勇気——そういうものが本当の意味での「自由」なのかもしれない。
時間的な自由vs精神的な自由
確かに会社員より時間の調整はしやすい。けれどその分、精神的なプレッシャーは強く、常に気を張っていないといけない。好きで始めた仕事のはずなのに、どこかで「仕事に使われている」気持ちになる瞬間がある。時間の自由だけを追っていた自分に、少し反省している。
選んだ道だけど、時々立ち止まりたくなる
自由業という選択に後悔はしていない。でも、疲れたときは「なんでこんな大変なんだろう」と思ってしまう。そんなときは、立ち止まってもいいんじゃないか。そんな記事を書きながら、自分に言い聞かせている。いつか、本当に「自由」と思える日が来ると信じて。