「付き合うと息が詰まりそう」ってどういう意味なんだろう
それを言われた瞬間、胸の中にズンと重たいものが落ちた。何が悪かったんだろう、そんなつもりはなかったのに。僕が放った言葉のどれか? それとも態度? いや、むしろ僕という存在そのものが「圧」だったのかもしれない。司法書士という仕事柄、几帳面で融通がきかない性格なのは否定しようがない。きっちりしていることが信頼につながる世界で、気を抜くことは死活問題だ。けれど、恋愛はその逆だったのかもしれない。
言葉の裏側にある“圧”への自覚
「息が詰まりそう」って、つまり一緒にいても心が休まらない、ってことだと思う。それってつまり、相手が僕に“安心できなかった”ってことなんだよね。たぶん、僕の優しさが「こうすべき」「ちゃんとしなきゃ」といった強迫的な空気を生んでしまったのだと思う。相手にとっては、僕の誠実さや気遣いが、逆に「常に気を張らなきゃいけない関係」に感じられたのかもしれない。
仕事と同じように人間関係も「責任感」で縛ってしまう癖
僕は何事も責任を持って取り組む性格だ。仕事だけでなく、人との約束、交際でも「最後まできちんと向き合うべき」という考えが根っこにある。でも、その“重さ”が、相手にとってはプレッシャーだったのかもしれない。「連絡はこまめに」「会う予定は先に調整して」「悩みがあれば聞く」…全部、よかれと思ってやっていた。でもそれが、“管理されてる感”に繋がったとしたら、本当に皮肉だ。
正しさばかりを求めると疲れるのは相手も同じ
たとえば、提出書類を間違いのないように仕上げることは大事だけど、恋愛までその精度を持ち込んでしまったらダメなんだよな。完璧でいようとする姿勢は、相手の自由を奪ってしまう。そういえば昔、彼女が「適当でもいいよ」と言ったとき、僕はその“適当”がどうにも受け入れられず、つい「いや、それはダメだよ」と返してしまったことがある。あれ、完全にダメなやつだった。
言われた瞬間、胸に広がったしんどさ
その一言で、いろんな記憶がぐるぐると渦を巻いた。過去の恋愛でも同じようなこと、言われた気がする。つまり僕は、変わってなかったんだなって。何かが致命的にズレている。その場では笑ってごまかしたけど、内心では「ああ、またか」と思っていた。なんでこう、うまくいかないんだろう。自分なりに努力してるのに。寂しさと悔しさと情けなさが同時に押し寄せて、夜中に眠れなかった。
否定ではなく、逃げの一種だったのかもしれない
「息が詰まりそう」って、相手からの拒絶じゃなくて、逃げの表現だったのかもしれない。僕が悪いわけでも、彼女が悪いわけでもなくて、ただ“合わなかった”ってこと。でも、そう割り切るには時間がかかるし、心の整理も必要だ。つい、反省ばかりしてしまう。でも反省しすぎると、自分の存在そのものを否定してしまいかねない。
自分を責めすぎると沼にはまる
こういう時、僕は徹底的に自分を責める癖がある。「自分に問題があるから、誰とも続かないんだ」「この性格じゃ、一生独身だな」って。でもそれを繰り返すと、沼にハマる。答えの出ない反省会を延々と開いて、どんどん自信を失っていく。もうやめたい、と思っても思考は止まらない。仕事では冷静に判断できるのに、自分のことになるととたんに感情的になるのが不思議だ。
司法書士という職業と孤独感のリンク
この仕事、実はけっこう孤独なんだよね。ひたすらパソコンに向かって、書類作って、確認して、登記申請して…誰かと深く関わるような時間は少ないし、間違いは許されない世界。だから、他人に甘えるのが苦手になっていく。恋愛も同じ。相手に“寄りかかる”ことができない。なんでも自分で抱えて、相手の言動を「責任」として受け止めすぎる。結果、重たい存在になる。
常に「ちゃんとしてる」が求められる日々
登記の世界は、ちょっとのミスが致命傷になる。だからこそ、細かいところまで気を張り続けるのが習慣になってしまった。自分で自分に「ちゃんとしろ」と言い聞かせてきた。だから、人との付き合いにもその姿勢を持ち込んでしまうんだよね。手を抜くのが怖い。楽をすることに罪悪感がある。でも、人間関係には“力を抜く余白”が必要だったと、今になって気づく。
誰も気づいてくれない小さな頑張り
事務所でも、日々の細かい調整やトラブルの処理、書類の確認…そんな積み重ねを誰も褒めてくれない。感謝されるどころか、「当たり前」として処理される。だからこそ、恋人には気づいてもらいたかったんだろうね。「すごいね」「頑張ってるね」って言ってもらえたら、心が救われたと思う。でも、それを求める自分がまた“重い”のかもしれないと感じてしまって、何も言えなくなる。
感情を後回しにする習慣が人間関係にも出る
「仕事優先」が当たり前の生活をしてると、自分の気持ちに鈍感になる。たとえば、腹が立っても「まあいいか」で片付けるし、悲しくても「今はそれどころじゃない」と無視する。そういう癖が、恋愛でも出てしまうんだよね。相手に不満があっても言わない。傷ついても表に出さない。結果、相手からすれば「何を考えてるかわからない」「無言の圧力」になってしまう。
事務所の中でさえ気を使ってしまう日常
うちの事務員さんにも、いつも気を使ってしまう。たぶん僕は、職場でも家でも「本音を出すのが下手」なんだと思う。嫌なことがあっても我慢してしまうし、自分の要求も言えない。でも、それを“優しさ”だと思ってた。けれど実際は、ただの“自己防衛”なのかもしれない。本当の意味での信頼関係って、ちゃんと伝えることから始まるんだよね。
優しさは時に“重い”と受け取られる
「気を使いすぎる」「優しすぎる」って、言われたことがある。最初は褒め言葉かと思ってたけど、どうやら違ったらしい。僕の“気遣い”が、相手の自由を奪っていた。たとえば、帰りが遅いときに心配してLINEを何通も送る。体調が悪いと聞けば、無理にでも駆けつける。そういう行動が“息苦しい”と感じられてしまうこともあると、ようやく理解できた。
何かしてあげたい気持ちが空回り
恋愛に限らず、僕は「何かしてあげたい」人間だ。でも、その善意がいつも報われるとは限らない。むしろ、相手が求めていないときには、ただのお節介になる。過去にも、「そこまでしなくていい」と言われて凹んだことがある。自分の中では“親切”だったのに、相手にとっては“余計”だった。このズレに、なかなか気づけなかった。
相手の自由を奪ってしまう無自覚な支配
「心配だから」「大事に思ってるから」って言えば、すべてが正当化されると思っていた。でも実際には、その言葉の裏にある“支配”に気づかなかった。相手が何をしたいのかよりも、「僕がどうしてあげたいか」が優先になっていた。それでは、相手は息が詰まってしまう。大事なのは、相手が“自分らしくいられる空間”を一緒に作ることなんだよね。
「モテない」は性格の問題じゃない気がしてきた
ずっと「モテないのは性格が悪いから」って思ってた。でも、違うのかもしれない。むしろ真面目で優しいところが、“人を疲れさせる要素”になってるとしたら、それは努力の方向を間違えていたんだ。完璧を目指すのではなく、もっと「ゆるさ」や「隙」を大事にしないと、人は近づいてこない。完璧な人間より、ちょっとダメなところがある人の方が、案外魅力的に見えるんだろうな。
一人でやってきたことの誇りと副作用
ここまで一人でやってきた。それは誇っていいことだと思う。でもその一方で、誰かに頼ることができなくなった副作用もある。人との距離感がわからない。気遣いが過剰になる。自分では“普通”だと思っていた振る舞いが、実はかなり“めんどくさい”部類に入ってたんじゃないかと、今になって反省している。結局のところ、「自立」と「孤立」は紙一重なんだよな。
近寄りがたい雰囲気を自分で作ってしまう
無意識のうちに、笑わなくなっていた。無意識に、声が小さくなっていた。そういう小さな態度が、人を遠ざける雰囲気を生んでいたのかもしれない。仕事モードのまま、プライベートに入ってしまう。相手からすれば、「いつもピリピリしてる人」に見えていたのかもしれない。もっと力を抜いて、笑って、くだらない話でもできるようになりたい。それが“人としての魅力”なんだろうな。