泣ける映画が観られなくなった日、感情をしまいこんだ理由

泣ける映画が観られなくなった日、感情をしまいこんだ理由

泣ける映画が観られなくなった日、感情をしまいこんだ理由

昔は感動に飢えていた

若いころ、私は泣ける映画ばかりを選んで観ていた。「生きてるってこういうことだ」とか、「人間の温かさに触れた気がする」なんて感想を並べて、自分の感受性を確認していたのだと思う。何かを感じて泣くことが、自分が人間である証みたいに思えた時代があった。司法書士の仕事を始めてからも、それは変わらなかった。むしろ、感情を動かされることが一種のリセットになっていた。

泣ける映画を探していたあの頃

20代後半から30代の頃は、泣けると話題の映画があれば、封切りを待ってすぐに観に行っていた。「世界の中心で、愛をさけぶ」なんてまさにそうだった。観終わったあとも胸が詰まって、帰りの車の中で涙が止まらず、でもそれがなんだか誇らしくもあった。自分にもまだこんな感情があるんだと安心できたのだ。

感情を動かすことが、生きてる証だった

何も感じないまま仕事と家の往復をする日々の中で、映画の中でだけ泣けることが生きている実感だった。仕事では感情を抑えるのが当然だからこそ、感動的なストーリーに身を任せて涙することが、心のバランスを取る方法だった。感情に蓋をせずにいられる時間が、あの頃の自分には必要だった。

なぜ司法書士になったあとも観ていたのか

司法書士として独立してからも、最初の数年はまだ心に余裕があった。登記の手続きや相続の案件に追われつつも、帰宅後の映画鑑賞は心を整える時間だった。たとえ疲れていても「泣くために映画を観る」という不思議なモチベーションがあった。泣ける映画は、感情の掃除機のような存在だった。

心を洗うために必要だった“涙”

自分のために泣くというより、誰かの物語に自分を重ねて涙を流すことで、自分の中の何かが浄化されている気がしていた。実際にはその涙で何が解決されるわけでもないのだが、それでも、あの頃の私は「泣くこと」に意味を持たせていた。涙は、自分を守る手段でもあったのかもしれない。

感情の排水口としての映画

忙しい中でも月に一本は、わざと泣けると噂の映画を探していた。涙を流すことで、溜め込んだ感情の濁りを一掃していたように思う。洗面台の排水口のように、心の中にある不要な感情を映画で流し切る。それが日々をリセットするルーティンになっていた。

涙を流すことの意味を信じていた

泣くことは弱さの象徴ではなく、むしろ強さだと信じていた。だから、涙が出たときは「自分はまだ壊れてない」と思えたし、その実感が必要だった。強がることに疲れた日でも、映画の中では素直になれた。泣いても誰にも見られないからこそ、本音の涙だったのだ。

泣ける映画を避けるようになった理由

ところが、ここ数年は「泣ける」と評判の映画を無意識に避けるようになっていた。CMで涙を流すシーンを見るだけで「面倒くさい」と感じてしまう。あれだけ泣いていた自分が、今はまるで感情の抜け殻のようだ。泣ける映画を観ることが、負担になってきた。

泣いたあとの虚しさに耐えられなくなった

泣ける映画を観たあとの静けさに耐えられなくなったのかもしれない。涙を流して一時的にスッキリしても、日常は変わらない。むしろ、感情を動かしたぶんだけ心に隙間ができて、そこに虚しさが入り込んでくる。「どうせまた明日も忙しいだけだろう」と、涙を拭いたあとに戻る現実がつらくなった。

感情を動かす余裕がない日々

今の私は、感情を動かすことそのものに疲れている。依頼人の話を聞いて、気持ちを汲み取り、そっと整理して返す仕事を続けていると、自分の感情を動かすことが後回しになる。そうしているうちに、感情のスイッチの場所がわからなくなってきた。

涙のあとに待っているのは現実だった

かつては涙のあとに「少し前向きになれた」感覚があった。でも今は違う。泣いた直後に携帯が鳴って、急ぎの登記の依頼が入ってくる。仕事に引き戻される現実が、涙の余韻すら奪ってしまう。「泣く暇があるなら、寝て回復しろ」と、そんな声が内側から聞こえてくる。

そもそも“泣ける”ことに疲れた

本当に、泣くことに疲れたのだと思う。感情が波立つことすら面倒くさくなってきた。あれほど求めていた“感動”が、今ではただのノイズに感じてしまう。涙でしか癒されなかったあの頃とは、もう違う。

「感受性が豊か」と言われて嬉しかった時代

若い頃、「感受性が豊かだね」と言われると嬉しかった。自分が他人と違う視点を持っていると思えたし、それがアイデンティティの一部だった。でも、今はどうだろう。感受性は、仕事では邪魔になることもある。自分を守るために、感情を鈍くしているのかもしれない。

いまは涙すら出てこない

最近、どんなに感動的なシーンを観ても涙が出ない。目はじんわりするが、涙腺は開かない。それが少し怖い。泣ける映画を避けているのではなく、泣けない自分に気づくのが嫌なのかもしれない。

日々の仕事で心がすり減っていく

司法書士という仕事は、感情と無縁に見えて、実は他人の感情と密接につながっている。依頼人の話を聞くうちに、こちらの心も削られていく。その積み重ねが、感情を感じる力を鈍らせている気がする。

誰かの悲しみに毎日付き合う仕事

相続、離婚、成年後見、死亡届――私の机の上に乗ってくる案件には、誰かの終わりや、悲しみや、決断が詰まっている。それを黙って受け止め、事務的に処理するのが仕事だけれど、感情を持つ人間としては、完全に無視できるものではない。

登記の裏にある人生の終わりや始まり

不動産の名義変更ひとつとっても、それは誰かの死を意味する。新しい所有者になるということは、前の所有者がこの世にいないということ。感情を込めないようにしても、事務所に戻って独りになると、ふと心に染みてくる瞬間がある。

他人の感情を処理する専門職

司法書士は、他人の人生の節目に関わる職業だ。その節目には必ず感情がある。だが、私たちはそれを“処理”する。感情を抱え込むのではなく、法的に整えて流す。それを繰り返すうちに、自分の感情はどこかに置き去りにされてしまった。

それでも感情を捨てたくはない

たとえ泣ける映画が観られなくなっても、私はまだ感情を手放したくはないと思っている。感動を避けるようになったのは、感情を守るための手段かもしれない。それでも、心のどこかでは泣ける自分を忘れていない。

泣ける映画を避けながらも心を保つ方法

最近は、あえて感情を激しく動かすものよりも、静かな映画やドキュメンタリーを選ぶようになった。そこには涙はないが、共感や理解がある。泣かなくても感じることはできる。その微細な感情を味わうようになった。

感動じゃなくて「静けさ」を選ぶ

涙を流す代わりに、静かな夜にコーヒーを飲みながら観るような作品を選んでいる。「泣かないけど沁みる」、そんな時間の方が、今の私にはちょうどいい。感情を振り回されるより、そっと寄り添うような物語がありがたい。

本音を吐ける時間のありがたさ

それでも、本音を吐ける相手が一人いるだけで、心の中の涙腺は守られている気がする。事務員の彼女に「最近、映画観て泣けなくてさ」なんて話すと、ただ「忙しすぎるんですよ」と言って笑ってくれる。それだけで少し救われる。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。