独身司法書士、今日も一人。孤独との付き合い方

独身司法書士、今日も一人。孤独との付き合い方

静かな事務所に響くのはプリンターの音だけ

地方で司法書士をやっていると、本当に静かな時間が多い。特に事務員が休みの日なんて、もう無音。何の物音もしない事務所に、突然「ジジジ……ガシャッ」とプリンターの音だけが響く。そのたびに少しビクッとするのは、もはや日常。開業当初はこの静けさに集中できると前向きに考えていたが、今ではちょっとした恐怖を感じるほどだ。一人で働いていると、仕事中でも自分の思考がどんどんネガティブな方に流れていく。声に出す相手もいないから、自分の中でぐるぐる考え込んでしまうのだ。

「人と話さない日」があるという現実

私のような地方の独立司法書士にとって、「今日は誰とも話さなかった」という日が月に数回ある。朝から仕事をして、昼はカップラーメン、夜はスーパーの総菜。誰かと話したのは、コンビニの店員さんくらい。仕事の電話すらない日もある。特に年末や連休明けなど、世の中がワイワイしている時ほど、こちらの孤独感は増す。みんなが家族で鍋を囲んでいる時、自分はファイルを整理しながらレトルトカレーを食べている、そんな現実がある。

電話対応すら来ない日は、何を考えるか

電話が鳴らないと仕事が進む、というのはある意味では真理だ。でも、本当に丸一日誰からも連絡が無いと、心の奥がスーッと冷えていくような感覚になる。「このまま誰とも関わらずに一日が終わるのか?」そんな考えが浮かぶと、書類のミスが増える。注意力が散漫になるのだ。ふと「自分が倒れたら誰が見つけてくれるんだろう」とか、「あと何年この生活を続けるんだろう」とか、そんな思考が頭を巡り出す。もちろん答えなんて出ない。

孤独=自由?本当にそうだろうか

「自由でいいですね」と言われることがある。確かに、誰にも指図されず、自分のペースで仕事を進められる。それは間違いない。でも、その自由は、同時に“誰からも期待されていない”という意味でもある。家に帰っても、誰かが待っているわけではない。連休を取っても、予定があるわけじゃない。自由の裏側にあるのは、ただの孤独だ。昔はそれでもよかったけど、40代半ばにもなると、「もう十分味わった」と思ってしまう。

仕事が終わってからの時間、どう過ごしてる?

事務所の鍵を閉め、車に乗り込む時間が一番気が抜ける瞬間。だけど、そこからが長い。帰っても誰もいない家。テレビをつけるだけの生活。最近はテレビもつけなくなった。代わりにYouTubeで猫動画を見て癒されている。でも、それも10分が限界だ。ソファに座って天井を見上げる時間が増えた。「なんでこんな生活になったんだろう」って、考える時間が無駄に長いのだ。

一人飯が「気楽」から「虚しさ」に変わる瞬間

昔は「一人飯なんて気楽でいいじゃん」と思っていた。でも、40を過ぎたあたりから、違和感が出てきた。ファミレスで夕飯を食べていると、家族連れやカップルがやたら目につく。こっちはメニューも早々に決めて、黙々と食べて、そそくさと店を出る。その時間、わずか15分。誰かと話しながら笑って食べることが、どれだけ心の栄養になるのか、今さらながら痛感している。

孤独を感じる瞬間ランキング:司法書士編

「こんなときに孤独を感じる」という瞬間は意外と多い。仕事がひと段落ついた時、夜遅くまで事務所に残っている時、土曜の夜に誰とも会話していない時。中でも特にこたえるのが、人が集まる季節イベント。年末年始、バレンタイン、誕生日…。誰からも連絡が来ない日は、自分の存在意義すら疑ってしまうことがある。

年末年始の「あけましておめでとう」が無い

SNSに「あけおめ」が溢れるなか、自分のスマホには通知が一つも来ない。カレンダーがめくられても、気分はいつもと同じ月曜日だ。家族とも距離があるし、友人とは疎遠になって久しい。年賀状ももう何年も書いていない。たまに昔の同級生から届くことがあるけど、「ああ、結婚したんだな」「子ども大きくなったな」と余計に胸がえぐられる。

LINEは業者か実家しか来ない

LINEを開いても、届いているのは通販サイトの通知か実家の母からの「風邪ひいてないか?」というメッセージくらい。友達リストはあるのに、やり取りは無い。誰かと繋がっているようでいて、実は全然繋がっていないことに気づく。便利になった時代だけど、人の温もりは逆に遠くなった気がする。

事務員が休みの日の無音地獄

一人事務所とはいえ、事務員さんが一人いるだけで全然違う。たとえ雑談をするわけじゃなくても、誰かが近くにいるだけで「一人じゃない」という安心感がある。そんな事務員さんが休みの日は、急に空気が変わる。キーボードの音、紙をめくる音、すべてが無機質で重く感じる。その日の業務がスムーズに進んでも、心の疲労感は倍増だ。

それでも辞められないのはなぜか

こんなに孤独で、辛くて、大変なのに。どうしてこの仕事を続けているのか。自分でも時々わからなくなる。でも、誰かの相談にのったり、登記が無事に完了した時の「ありがとう」に救われている自分がいる。ほんの一言なのに、それが嬉しい。たまに泣きたくなるくらい。「自分にも、まだ誰かの役に立てる瞬間がある」と感じられることが、この仕事を続ける原動力だ。

それでも、誰かの役に立てているという希望

すべてが虚しいわけじゃない。たとえ孤独でも、自分の仕事が誰かの助けになっていると実感する時がある。その瞬間だけは、自分の存在を肯定できる。笑顔で「助かりました」と言われるたびに、少しだけ胸を張れるのだ。

登記完了後のお礼の一言に救われた日

ある日、相続の登記が完了して書類をお渡しした時、「本当に助かりました。兄弟で色々あったんですが、これでやっと気持ちの整理がつきます」と言われた。その一言がずっと耳に残っている。自分の作業が、単なる書類仕事じゃなく、人の人生の節目に関われたんだと気づいた。独身であろうと、孤独であろうと、こんな風に人の役に立てるなら、悪くないと思えた。

人の人生に関わる責任と、誇り

司法書士は地味な仕事だ。派手さはないし、華やかな人付き合いも少ない。でも、一つひとつの手続きには責任があり、それを通じて誰かの人生が少しでも前に進んでいる。誰にも気づかれないところで支える、黒子のような存在。それでも、自分の手が確かに役に立っていると感じられる時、その地味さにも価値があると思えるようになった。

「ありがとう」が唯一の報酬の日もある

報酬はもちろん大事だ。でも、心に残るのは「ありがとう」という言葉だったりする。中には、何年も前に対応した依頼者から、突然感謝の手紙が届いたこともある。忙しくてボロボロの時にその手紙を読み、少し泣いた。孤独でも、誰かのために働いている。それがわかるだけで、少し救われるのだ。

でも、それで続けていける不思議

たった一言、たった一通の手紙、たった一人との関わり。それだけでまた一週間頑張れる。結局のところ、人は誰かと繋がっていたい生き物なんだと思う。独身でも、モテなくても、同業の飲み会で話が合わなくても。それでも続けていけるのは、仕事の中で得られる「誰かとのつながり」があるからなのだろう。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。