毎晩、寝る前に思い出す “あの瞬間”──司法書士という仕事と小さな後悔たち

毎晩、寝る前に思い出す “あの瞬間”──司法書士という仕事と小さな後悔たち

寝る前の静けさが連れてくる、今日の自分への問いかけ

日中はどうにか目の前の業務をこなしていくので精一杯で、余計なことを考える暇もない。でも、寝る前の数分間だけ、やたらと静かになる時間がある。そのとき、ふと頭に浮かぶのが「今日の自分はちゃんとしてたか?」という問い。別に大失敗をしたわけでもない。誰かに怒鳴られたわけでもない。けれど、「もうちょっとなんとかできた気がする」という、言いようのないもやもやが残るのだ。

忙しさにかまけて見逃した「小さな選択」

日々の仕事には、無数の判断がある。「これでいいか」と片付けたあの書類の確認、「忙しいので」と言って電話を後回しにしたあの人のこと。大きな問題ではないけれど、その一つひとつが夜になるとジリジリと胸を刺す。司法書士という仕事は正確性が命だが、だからこそ“人としての対応”が雑になっていないかが気になる。たとえば、今日、登記簿の写しを送ったとき、ひと言「ご確認ください」と添えたメール文面。もっと心がこもっていてもよかったんじゃないか。そんなふうにして後悔は静かに育つ。

あの電話、もう少しだけ丁寧に話せたかもしれない

午後3時頃だっただろうか。事務所に電話がかかってきて、ちょっと焦ったような声の依頼者からの相談。「この書類、どうしたらいいですか?」という問いに対して、僕は少し機械的に答えてしまった。「それは〇〇法の規定により〜」と、いつものように専門用語を並べ、早口で処理した。あのとき、「ご不安でしょうが、大丈夫です」と一言添えるだけで違ったのに。相手の声が、電話越しにちょっとしぼんでいったのを思い出す。寝る前にその声を思い出して、少し胸が痛くなるのだ。

「急いで送った書類」に込めたかった気持ち

夕方、登記完了通知を封筒に入れてポストに入れた。印刷から封入まで、一連の作業を事務員さんが段取りよくこなしてくれる。ありがたいことだ。ただ、それに甘えて、僕はただ「はい、お願いします」とだけ言った。依頼者にとっては、何週間も待った結果の通知書。もっと「無事終わりました。お疲れ様でした」と伝えるべきだったんじゃないか。機械のようにこなした仕事の中に、伝えるべき気持ちを置き忘れていなかったか。そんなことを、布団の中で思い出す。

夜になると胸に残る、依頼者の顔

仕事が終わって、誰もいない事務所でパソコンの電源を落とすと、なぜかその日の依頼者の顔が思い浮かぶ。「ありがとうございました」と言われたはずなのに、どこか無理をしているような、納得してないような顔。きちんと説明したつもりでも、こちらの都合を優先してなかったかと振り返る。プロとしての自分と、人間としての自分。そのギャップに、夜が深くなるほど苦しくなる。

感謝の言葉よりも、無言の表情が刺さる

「ありがとうございました」と言って帰っていった高齢の女性。手続きは完璧だったし、時間内にすべて終わらせた。でも、帰り際、少し寂しそうな笑みを浮かべたのが忘れられない。たぶん彼女は、少し不安だったんだろう。もう少し雑談でもしてあげればよかったかもしれない。形式的な「完了」だけで、安心までは提供できていなかった。そう思ったら、司法書士という仕事が、ただの書類処理屋で終わらないようにしたいと改めて思う。

期待に応えられたかという疑念

依頼者の中には、こちらに大きな期待を持って来所する人もいる。あるいは、最後の望みとして来る人もいる。けれど、僕は彼らの「人生の一場面」に寄り添えているのかどうか。登記や契約の専門家としてではなく、「この人に任せてよかった」と思ってもらえる存在かどうか。それが不安になるときがある。そういうとき、やっぱり思うのは、「あのときもっと聞く姿勢を見せればよかった」という自責。正解はない。でも、もっとできたはず、という気持ちだけが残る。

司法書士という仕事の「正しさ」と「後悔」の境界線

この仕事は、正しさを突き詰めていく職業だ。だからこそ、法的には問題ない判断であっても、人としての後悔はどうしても残る。完璧にこなすことと、気持ちを届けることは、別の話だと痛感する。小さなすれ違いが、夜の後悔としてじわじわと浮かび上がる。

法律上は正しくても、人としては…?

先日、相続手続きの相談に来た男性に、手続きの流れを説明したときのこと。形式的な説明に終始してしまい、感情に寄り添う言葉を一つも使えなかった。「もうちょっと踏み込んで聞くべきだったか」と思い返す。形式の正しさに逃げてしまっていないか。それが今の自分の小さな課題だと感じている。

「ルール通りです」では割り切れない瞬間

ルール通りの対応というのは、一見正しいし、安全だ。しかしその「正しさ」が、誰かの心に冷たく響いてしまうこともある。例えば、「このケースでは登記できません」と事務的に答えたとき、相手の肩が落ちたことがある。その人にとっては、ただの相談じゃなかったのだ。人生の節目だったのかもしれない。自分にできるのは、せめて、寄り添う姿勢を見せることだったのに。

事務的な言葉が誰かの不安を増やすこともある

一度、「この書類は不備がありましたので〜」と、定型的な文面で送り返したことがある。数日後、電話で「すみません、内容がよくわからなくて」と言われた。そのとき初めて、自分の言葉が相手の不安を招いてしまっていたことに気づいた。事務処理の世界にいると、心の機微を見落としがちになる。司法書士が伝えるべきは、手続きの情報だけじゃないと反省した瞬間だった。

失敗じゃないけど、満足とも言えない仕事

仕事はこなしている。時間内に、トラブルなく、誤記もなく。けれど、寝る前に「今日は満足できたか?」と問うと、黙ってしまう日がある。それは失敗じゃないけれど、納得とも言えない仕事の残り香なのだ。書類の山を眺めて、自分の存在価値を考えてしまう日もある。

合格点だけど、合格とは言いたくない感覚

学生時代、70点の答案をもらって「ま、いいか」と思ったことがある。でも今は違う。誰かの人生の一部を預かっている仕事で、70点はもはや失敗に等しいことがある。自己採点で「これでよかったのか?」と立ち止まる夜は、そういう意味でとても大事な時間でもある。

その違和感が、寝る前に顔を出す

「今日も何事もなく終わった」と思った瞬間、何か小さな違和感が胸に引っかかる。あのときの返答、もっと別の言い方があったかもしれない。そういう些細なズレが、寝る前にふと顔を出す。忙しさの中では気づかないけれど、静かな夜はその声をはっきり聞かせてくる。

誰にも言えない小さな後悔が積もっていく日々

誰にも話さないまま終わる、小さな後悔がたくさんある。事務員にすら見せない顔があって、弱音を吐く場もないまま、今日が終わっていく。そしてまた夜が来て、布団の中で「あれでよかったのか?」とつぶやいてしまう。

「まあいっか」と「それでいいのか」のあいだ

仕事の現場では、「まあいっか」と切り替える力も必要だ。でも、それが癖になると、心がすり減る。「それでいいのか?」という自問がなくなったら、たぶん終わりなんだと思う。毎晩その問いと向き合っているうちは、まだなんとか踏ん張れている気がする。

他人から見えないからこそ、自分が気になる

この仕事、自分との戦いが多い。他人からの評価は少なくて、自己評価ばかりが増える。だからこそ、「誰も気づかないけど、自分だけが引っかかってること」が重くのしかかる。そんな重さを、毎晩そっと枕に預けるような気持ちで眠っている。

愚痴を言うことでしか、バランスが取れない

同業者と話すと、自然と愚痴になる。たぶん、愚痴というのは、心のバランスを取るための安全弁なんだと思う。「疲れるよな」「やってられないよな」と言いながら、少しだけ軽くなる。そうやって翌日もまた、書類の山と向き合っていく。

事務員にも全部は見せられない「弱さ」

頼れる事務員が一人いる。でも、すべてを打ち明けるわけにもいかない。事務所の空気を壊したくないし、無駄に心配もかけたくない。だから、笑って「大丈夫、大丈夫」と言ってしまう。そうやって、一番疲れている自分を隠している。

それでも朝は来る──後悔を糧にするという強がり

毎晩の小さな後悔は、朝になればすこし薄れる。そしてまた、新しい一日が始まる。あのときの自分を反省しつつ、今度はもう少しマシな自分でいようとする。そういう繰り返しの中で、少しずつでも前に進んでいけたらと願っている。

やり直しはできない。でも、やり方は変えられる

仕事の性質上、「取り返しがつかない」という重さがつきまとう。だからこそ、過去を嘆くよりも、今の行動を見直すことが大事だと自分に言い聞かせている。後悔はある。山ほどある。でも、今日のやり方は明日から変えられる。そう思えるだけでも、少し救われる。

少しの反省が、明日の自分を支えてくれている

後悔ばかりの夜だけど、それがあるから、また次の一日に挑める。後悔しない人生なんてたぶん嘘だし、そもそもそんなに立派に生きられない。ただ、自分なりに「少しだけよくする努力」を重ねていければ、それでいいんじゃないかと思っている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。