あの一言が、完璧な書類よりずっと嬉しかった
書類の山に埋もれていると、たまに心がふっと遠くへ行くような感覚に襲われる。何十件もの登記を正確に処理しても、感謝の言葉一つない日だって珍しくない。そんなある日、依頼者の高齢女性から届いたのは、手書きの便箋に滲んだ文字。「先生、ありがとうございました。お身体に気をつけてくださいね」。たったそれだけ。でも、疲れがじんわりと和らいで、少し泣きそうになった。完璧な登記簿謄本より、その言葉が何倍も心に残った。
「ありがとう」って、そんなに珍しい言葉だったっけ
最近、感謝の言葉を聞くことが減った気がする。もちろん皆さん忙しいし、登記が終わるとそれで終わりっていう感覚も分かる。でも、「ありがとう」の一言があるだけで、こちらの気持ちはまるで違う。たとえば先日、不動産の相続登記を終えたお客様が「助かりました」と言って帰られた。きっと本人は何気なく言ったのだろう。でもその言葉が、何時間も準備した自分の努力を救ってくれた。手続きの結果より、その一言で頑張った意味があったと感じられた。
クライアントからの一言に、こっちが救われる矛盾
司法書士という立場上、こちらが「救ってあげる側」であるべきなのかもしれない。でも実際は逆のことも多い。心がすり減っているとき、何気ないクライアントの言葉に救われることがある。以前、ぎっしり詰まった登記申請の合間に、「先生、顔色悪いですよ」と言われたことがあった。仕事モードを強制終了された気がしたけれど、その瞬間、人として扱われた気がして安心した。完璧な成果物では得られない、言葉の力ってある。
効率と成果ばかりの世界で、感情がこぼれ落ちる
日々、求められるのはスピードと正確さ。間違いなく大事なことだけど、そのプレッシャーの下では、心をこめた対応がどうしても後回しになる。たとえば急ぎの登記で、電話越しに感情を殺して説明する自分に気づいたとき、どこか虚しさが残った。相手も機械みたいな返事で、それがますます拍車をかける。ああ、自分は今、人と話していないんだなって。こんな時こそ、「雑でもいいからあたたかい言葉」が恋しくなる。
毎日が期限との闘い、気づけば心が乾いていた
登記の期限、申請の締切、期日管理のストレス…。日々追われていると、気づけば何のためにこの仕事をしているのか分からなくなることがある。午前中だけでメールが30通、電話が10本以上。昼食をとる時間すら惜しんで働いて、ようやく一息ついたとき、自分の机の上に山積みのファイルを見て絶望した。これ、いつ終わるんだろうって。時間に追われる生活が続くと、心がどんどんカサカサになっていく。
誰のためにこんなに急いでるのか、ふとわからなくなる
もちろん依頼者のために仕事をしている。でも、誰かの顔が思い浮かばないまま作業しているとき、ふとした虚無感に襲われる。誰にも感謝されず、誰にも気づかれず、ただ完璧を求められるだけの存在になっているようで。以前、三日連続で徹夜になった案件があった。無事終わったけど、相手からは「あ、終わったんですね」の一言。心が追いつかないまま、次の案件へと自動的に進む毎日。感情を置き去りにして進むのが、こんなにも苦しいとは思わなかった。
ミスは許されない、でも完璧じゃないのが人間
司法書士の世界では、ミス=信用失墜に直結する。だから、いつもピリピリと神経を尖らせて仕事をしている。でも、どんなに注意しても人間には限界がある。あるとき、登記書類の提出で記入漏れが見つかった。すぐに修正して事なきを得たけれど、事務所で一人「なんで俺はこんなことも…」と自責の念に潰されそうになった。そんなとき、「先生、大丈夫ですか?一緒に確認しましょう」と事務員が声をかけてくれて、思わず涙が出た。
「形式的に正しい」ことのむなしさ
書類がどれだけ正確で、様式が整っていても、それで人の気持ちが伝わるわけじゃない。ある日、役所から「形式は完璧です」と言われた案件があった。褒められているはずなのに、ちっとも嬉しくなかった。それよりも、依頼者から「ありがとう」と言われた別の案件の方が、ずっと心に残っている。形式美と人間味、そのどちらを選ぶかと問われたら、少なくとも今の自分は迷わず後者を選ぶ。
雑でもいい、そこに気持ちがあれば救われる
丁寧で完璧な言葉も素敵だけど、時にはたどたどしくても心がこもった言葉のほうが、何倍もありがたいことがある。昔、依頼者の子どもからもらった手紙に「せんせい、がんばってください」と書かれていたことがあった。誤字だらけで、小学生の拙い文字だったけれど、その手紙はいまだにデスクの引き出しにしまってある。完璧じゃないからこそ、本物の感情が伝わってくるんだと思う。
丁寧すぎるメールより、走り書きのメモが沁みるとき
最近はどんなやりとりもメールやチャットで済まされることが多い。でも、ある日ふと見つけた事務員さんのメモ。「急ぎじゃないです、落ち着いたらで大丈夫です!」と付箋に走り書きされた言葉。その一文が、なんだかとてもあたたかく感じられた。メールでは見逃してしまうような、その人の思いやりがそこにはあった。ああ、人と人とのやりとりって、こういうことだったんだなと思い出させてくれた。
効率の時代に逆行してでも、人間味を求めたくなる
「AIで業務効率化」「チャットで対応スピードアップ」そんな言葉が飛び交う中で、逆に自分は人間くささを求めている。確かに効率は大事。でも、司法書士の仕事って、相手の人生の節目に関わる大事な局面なんだよな。そんな場面で、冷たい対応や事務的な処理だけじゃ、何かが足りない気がしてならない。だからこそ、自分だけでも、できる限り「あたたかい対応」を心がけたいと思う。
事務員さんの何気ない言葉に、泣きそうになった
事務員さんは、普段から淡々と仕事をしてくれている。でも、ある日ふと「先生、ちょっと疲れてませんか?」と言われた。その言葉に、思わず胸が熱くなった。自分でも気づかないうちに、無理していたんだなと気づかされた。ミスがないように、ミスを見逃さないようにと毎日張り詰めていた心に、その一言が染み込んだ。雑談すらなかった日々の中での、その言葉はまさに救いだった。
「先生、大丈夫ですか?」の破壊力
何気ない一言ほど、人を救うことがある。それを実感したのが、この事務員さんの声かけだった。「大丈夫ですか?」って、たったそれだけの言葉。でも、自分を“司法書士”じゃなく、“人間”として見てくれた感じがした。書類の山では決して味わえない、あたたかい感情がそこにはあった。思えば、最近誰かに「大丈夫?」って言われることなんてなかったな。
仕事の愚痴をこぼす場所がある幸せ
仕事の愚痴を誰かにこぼせる。それってすごく貴重なことだと思う。以前はそれすら「迷惑かな」と我慢していたけど、今はちょっとくらい弱音を吐いてもいいと思えるようになった。愚痴ばかりじゃダメなんだけど、誰かに「疲れた」と言える場所があるだけで、また明日も頑張れる。そんな場所を、自分自身が誰かにとって作れるようになれたら、もう少しこの仕事も悪くないと思える。