正直、他人の人生が重い

正直、他人の人生が重い

正直、他人の人生が重いと感じる瞬間

司法書士という仕事は、人の人生に深く関わる職業だと思う。特に相続や借金問題、離婚や成年後見の場面では、依頼者の人生の転機や修羅場に立ち会うことになる。そんなとき、ふと感じるのが「なんでこんなにも他人の重たい感情を、自分が受け止めているんだろう」という違和感だ。仕事であり報酬もある。それでも、1日の終わりにため息と一緒に心の中に残る疲労感は、単なる業務の疲れとは違う。これはもう、共感疲労に近い。

相続の現場で見える「感情のもつれ」

相続手続きは、単に財産を分けるだけの話ではない。実際には、故人との関係性、兄弟姉妹間の確執、過去の傷が一気に噴き出す場面だ。ときには相談中に泣き出す依頼者もいるし、怒りにまかせて他の相続人を罵倒する人もいる。こちらは中立の立場であるべきだが、現場にいると感情の渦に巻き込まれてしまう。自分が家族の一員じゃないのに、なぜこんなに気疲れするのか…と、ふとした瞬間に思う。

書類一枚の裏にある、家族の確執

たとえば、遺産分割協議書にサインするのを渋る兄弟がいた。理由を聞くと、「兄貴は親の介護を全部私に押しつけて、最後まで顔も出さなかった」とのこと。書類にはただの名前と印鑑があるだけ。でもその一枚が、積年の怒りや悲しみを象徴していた。私はただの書類屋かもしれないが、その背景を知ってしまうと、無関心ではいられない。けれど、関心を持ちすぎるとこちらが潰れるのも事実だ。

「亡くなった人より生きてる人のほうが大変」って本当か

よく「亡くなった人より、残された人のほうが大変だ」と言うけれど、本当にそうなのか?という疑問もある。亡くなった人が遺したものは、遺産だけでなく感情の負債でもある。葬儀後、財産整理の渦中にいる依頼者たちは「もうこれ以上、人のことを考えるのがしんどい」と口にする。けれど、司法書士の自分も同じように感じていた。人の人生を片づけながら、自分の心がすり減っていく感覚。まるで見えない荷物を一緒に背負っているようだった。

依頼者の苦しみを受け止めすぎてしまう

「ただ話を聞いてもらえただけで救われました」。依頼者からそう言われることがある。うれしい反面、正直怖くもある。聞き役に徹して、必要な手続きを淡々と進めるのが本来の役割だろう。でも、自分の性格上、どうしても相手の気持ちに引きずられてしまう。そういうとき、自分が“司法書士”というより“感情のゴミ箱”のような存在になっているような気さえするのだ。

「先生に話してよかった」と言われた裏で

あるとき、家庭内で深刻な問題を抱えた女性が、涙ながらに相談してきた。成年後見の件だったが、実際の相談時間のほとんどは夫や子どもとの問題。2時間後、彼女は「こんなに話したの初めてです、ありがとうございます」と言って帰っていった。でも私のほうは、その夜なかなか眠れなかった。胸の中にずしんと重たいものが残ったままだった。

共感と同調の境界線をどこに引くか

人として共感はしたい。でも、仕事としては距離を保たないと自分が潰れる。その線引きが本当に難しい。特に田舎の事務所だと、依頼者との距離が近くなりがちで「先生、ちょっと聞いてよ」と気軽に頼られる。悪い気はしない。でもそれが積もると、気づけば心のキャパがいっぱいになっている。共感しながらも、沈まない技術。それがこの仕事を続けるうえで必要なスキルなのだと思う。

自分の生活とメンタルがすり減っていく

たまに「先生って、いつ休んでるんですか?」と聞かれる。実際、きちんと休んでいるつもりではある。でも、頭のどこかでは常に案件がちらついているし、電話が鳴れば対応せざるをえない。仕事と生活の境目が曖昧で、気づけばずっと誰かの人生を気にしている自分がいる。気持ちの切り替えがうまくできないと、仕事だけでなく、自分の人生まで重たくなっていく。

休日のはずが、着信が鳴ると胃が痛む

土曜日の午後、やっと一息つこうとしていたらスマホが鳴る。「休日にすみません、ちょっと急ぎで…」と言われたら断れない。出ないと罪悪感があるし、出ても気が休まらない。結果として、どちらを選んでもストレスになる。それが何度も重なると、「休日って何のためにあるんだろう」とさえ思ってしまう。心が休まらない休日は、もはや休日じゃない。

電話が鳴らないことにホッとする日もある

以前は電話が鳴るたびに「仕事がある証拠だ」と前向きにとらえていた。でも最近は違う。夕方まで一度も着信がなかった日は、心の底からホッとする。それだけ、自分が追い詰められている証拠なのかもしれない。事務員がいてくれて助かっているが、すべてを任せられるわけでもない。結局、自分で背負ってしまう。悪い癖だとわかっているのに、どうしても変えられない。

「この仕事向いてないのかも」と思う夜

疲れて帰宅して、冷蔵庫に何も入っていない現実に向き合う夜。「何やってんだろう、俺」って思う。世の中にはもっと軽やかに生きてる人がいるのに、なんでこんなに他人の人生を引き受けるようなことをしてるんだろうと自問自答する。向いてないのかもしれない。だけど、今さら何になれるんだ?とも思ってしまう。モテるわけでもなく、気の利いた人生設計もない。ただ今日も案件をこなすだけ。

他人の重さに押しつぶされる感覚

「誰かのために」が積もりすぎると、いつの間にか「自分のために」が消えていく。それでも仕事がある限りはやるしかない。自分で選んだ道だし、誇りもある。でも、しんどいときはしんどい。誰かの人生を整えながら、自分の人生は崩れていくような。そんな矛盾を抱えながら、毎日デスクに向かっている。

でも、辞める勇気もないという現実

実際、辞める勇気なんてない。資格を取るのに時間もお金もかけてきたし、他にできる仕事も思いつかない。開業してここまで来たのに、いまさら「辞めたい」とも言いづらい。だからこそ、吐き出す場所が必要なんだと思う。こうして文字にしてでも。誰かに伝えることで、少しは軽くなる気がする。

それでも、この仕事を続ける理由

つらいことも多い。正直、割に合わないと感じる日もある。でも、誰かの役に立てた瞬間の実感は、やはり代えがたい。人の人生に深く関わる仕事だからこそ、感情の揺れ幅も大きい。でも、だからこそ生きている実感も得られる。そんな仕事、そうそうあるものじゃない。

他人の荷物を持つことで、自分が少しだけ救われる

不思議なもので、誰かの人生に真剣に向き合っているとき、自分の孤独を忘れていることがある。「あ、今日は誰とも話さなかったな」と気づく夜より、「今日も一日バタバタだったけど、誰かの力になれたかも」と思える夜のほうが、心はちょっと軽い。だから、続けていけるのかもしれない。

「ありがとう」の重みと怖さ

依頼者に「ありがとう」と言われると、やっぱりうれしい。でも、その一言が自分にとっては怖くもある。「また頑張らなきゃ」と思ってしまうからだ。ありがとうの一言で、明日もまた背負ってしまう。でもそれが、この仕事を選んだ自分の業なんだろうなと思う。

優しさで潰れないために、距離を学ぶ

優しくありたい。でも潰れたら元も子もない。最近は、少しだけ「距離のとり方」を意識するようにしている。感情に引きずられないための術を、自分なりに身につけようとしている。そうしないと、これから先も持たないと思う。

境界線を引くことは冷たさじゃない

共感しつつも、一線は超えない。それは冷たいのではなく、持続可能な関係性のためだと自分に言い聞かせている。すべての依頼者に感情移入していたら、どれだけ優しくても壊れてしまう。だからこそ、少しずつ線を引く。それでも優しさはなくさずにいたいと思っている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。