飲み会に誘われないのではなく、参加できないだけなんです――司法書士の孤独な現実

飲み会に誘われないのではなく、参加できないだけなんです――司法書士の孤独な現実

誘われても断るばかりの自分に、だんだん声がかからなくなる

昔はそれなりに声をかけてもらえていた。「今度飲みましょう」「先生も来てくださいよ」と。社交辞令もあれば、本気で誘ってくれる人もいた。でも、こっちが断るたびに、少しずつその機会は減っていく。悪気はないのに、スケジュールがどうしても合わない。いつの間にか「どうせ来ないだろう」と思われているのか、飲み会の存在すら知らされなくなる。別に嫌われたわけじゃないのに、関係が薄れていく感覚はやっぱり寂しい。

スケジュールは依頼人次第。夜も休日も埋まっていく現実

司法書士の仕事は「予定通り」に進むものじゃない。書類の不備、急な面談依頼、登記の期限変更…依頼人の都合がすべて優先される。今日の夜は空けておいたはずなのに、午後4時に電話が鳴って「今日の夜、どうしても会っておきたい」と言われれば断れない。特に地方だと、相手のスケジュールも限られているから、こちらが調整するしかない。飲み会の約束なんて、そんな不確かな予定を立てる余裕なんて最初からないのだ。

「先生、急ぎなんです」と言われたら断れない性格が仇に

「急ぎ」と言われると弱い。昔から、頼まれると断れない性格だった。特に依頼人が高齢だったり、焦った様子で電話をかけてきたりすると、「今じゃなきゃダメだ」と思ってしまう。そのたびに、後ろに入っていた予定をずらしたり、誰かとの約束をキャンセルしたりしてきた。「また今度」と思っても、次の「今度」が来る保証はないのがこの仕事。だからこそ、目の前の依頼を優先してしまう。でも、それが結果的に人とのつながりを遠ざけている。

結局、自分の時間を確保する方法なんてなかった

スケジュール帳は依頼人の都合で埋まっていき、自分の予定は「仮」どころか「消去候補」になる。朝から晩まで働いて、やっと帰ってきても、書類の確認や翌日の段取りで夜が終わる。たまにぽっかり空いた時間ができても、疲れて動く気力が湧かない。「今日は絶対に行くぞ」と思っていても、電話一本で全てが崩れる。結局、完全に自分の時間を守る手段なんて、この仕事には存在しないのかもしれない。

「また誘ってくださいね」は、もう言えない

昔は、断ったあとに「また誘ってくださいね」と言っていた。それが礼儀だとも思っていた。でも、それすら言えなくなった。「どうせまた断るんでしょ」と思われることが分かっているから。申し訳なさと、情けなさが入り混じって、口が重くなる。最近では「お疲れ様です」とだけ返して、LINEのやり取りもそっけなく終わる。自分で自分を孤立させているような気がして、少し落ち込む。

気づけば孤独。でも、仕事を止めると不安が襲ってくる

夜、誰とも連絡を取らずにテレビを見ていると、ふとした瞬間に孤独が押し寄せる。友達は減ったし、恋人もいない。SNSで楽しそうな投稿を見るたびに、「あの中に自分はいない」と思い知らされる。でも、だからといって仕事を減らすわけにはいかない。収入が不安、評価が不安、依頼人の信用も失いたくない。だから、結局また仕事に逃げるようにして、孤独を埋めてしまう。

年賀状に「また飲みましょう」が書いてある虚しさ

年に一度、昔の知り合いから年賀状が届く。「また飲みましょうね」と手書きで添えられている。それを読んで、胸がぎゅっとなる。もう3年も会っていない人なのに、まだ覚えてくれていることが嬉しい反面、「どうせ今年も行けないんだろうな」と思ってしまう自分がいる。返事を書くのも、少し気が重い。自分がどんどん遠ざかっていくようで、情けないやら寂しいやら。

そもそも地方の司法書士は、気楽な個人事業主ではない

「個人事業主って自由でいいですね」と言われることがある。でも実際は真逆。地方で一人事務所を運営していると、自由なんてほとんどない。お金も時間も信用も、自分で守らなきゃいけないから、常に張り詰めている。責任を背負う分、気楽さとは無縁の生活だ。飲み会の一つくらいで気を抜けるほど、軽い日常ではない。

電話、訪問、登記、書類チェック…全部一人でこなす毎日

事務員がいても、結局のところ責任のある部分は自分でやるしかない。電話応対から始まり、登記申請のチェック、本人確認、時には役所との交渉まで。どれもミスが許されない。だから一つ一つ丁寧にやると、あっという間に夜。昼ごはんを食べる時間すら忘れる日もある。誰かと笑い合う時間なんて夢のまた夢。

事務員が一人いるだけで回る仕事量じゃない

うちは事務員が一人。彼女がいなければもっと大変なことになっている。でも正直、二人でやるには限界がある。効率化もしてきたつもりだが、それでも量が多すぎる。外注も考えたが、コストも信頼の問題もあって踏み切れない。だから結局、自分で抱え込むしかない。誰かに頼れたら…と思うが、現実はそう甘くない。

「先生が全部見てくれるから安心です」に隠れたプレッシャー

「先生がやってくれるから間違いない」――ありがたい言葉だ。でも、同時に強烈なプレッシャーでもある。「安心」の裏には、100%の信頼がある。でも人間だもの、ミスもある。疲れて注意力が落ちた日には、「これで大丈夫か?」と不安になる。でも、誰にも頼れない。この孤独な緊張感が、体も心もすり減らしていく。

これからの自分に必要なのは、仕事よりも“余白”かもしれない

ここまで働いてきて思うのは、もう少し“余白”が欲しいということだ。完璧を目指しすぎて、何もかも詰め込みすぎた。結局、心のバランスを崩しても、誰も助けてくれないし、自分も誰かを頼れない。だからこそ、自分のための時間、心を休める時間が必要だと思い始めた。

忙しさにかまけていたら、人生がただ過ぎていくだけ

いつの間にか45歳。気づけば、やりたいことより「やらなきゃいけないこと」に追われ続けていた。学生時代の友人は、家族とキャンプに出かけたり、趣味のマラソンを続けたりしている。自分にはそういう時間がなかった。何のために働いているんだろう、とふと立ち止まることもある。人生は有限だ。忙しさに逃げてばかりでは、何も残らない。

本当に会いたい人と、ゆっくり話す時間が持てるように

これからは、少しずつでも自分の時間を大事にしたい。本当に会いたい人とは、一対一でちゃんと話したい。仕事抜きの、ただの「人」としての時間が、自分には圧倒的に足りていなかった。飲み会に行くことじゃなく、その人との関係をちゃんと育てる時間が必要だと、ようやく気づいてきた。

「忙しい」は、頑張っている証拠…でも、それだけでいいのか

「先生は忙しそうですね」――よく言われる。でも、それって本当に褒め言葉だろうか。忙しさを誇るのはやめたい。頑張っていることは事実。でも、それが孤独や不健康と引き換えなら、意味があるのか疑問だ。これからは、「忙しい」より「充実している」と言える毎日を少しずつ目指してみたい。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。