誰とも話さない日が普通になっていた

誰とも話さない日が普通になっていた

話してないことに気づかない日が増えた

ある日、ふと気づいたんです。「あれ、今日一日誰とも話してないな」と。いや、正確には、数日前もそうだったし、その前の週もそうだった気がする。以前は、話さない日なんてよほどのことがない限りありえなかった。電話応対、来所対応、事務員との雑談。どれかしら誰かと話す機会があった。それが今では「普通」に静かに過ぎていく毎日。会話がないからといって困るわけでもないし、支障が出るわけでもない。でも、なんというか、「会話のない一日」が当たり前になってきたことに、妙な寂しさを感じてしまう自分がいる。

事務所で響くのはキーボードの音だけ

朝の事務所は静かだ。開店準備の音、パソコンの立ち上げ音、そしてキーボードを叩くカタカタという音だけが聞こえる。私も事務員も、それぞれのデスクに向かい、黙々と作業をこなしていく。特別会話をする必要もないし、むしろ話しかけると集中を切らせてしまいそうな空気が漂っている。それが習慣になってしまっているからこそ、違和感を覚える余地すらなくなっている。音のない職場というのは、効率的かもしれない。でも、人間的ではないような気がしてならない。

無音に慣れると心も鈍くなる

静けさに慣れると、驚くほど心の動きも鈍くなってくる。以前は誰かがちょっとした冗談を言えば笑っていたし、雑談のなかで仕事のヒントを得ることもあった。でも今は、その“余白”がない。無駄を省いた効率だけの世界にいると、笑うことも、共感することも、感情を表に出すことすら少なくなっていく。なんだか人間の輪郭がぼやけてくる感じがする。司法書士という仕事は正確性が大事だから、感情を排除するのがある種の正解なのかもしれないけれど、それにしても…心が静まりすぎている。

昔はうるさいくらい話していたのに

思い返せば、昔はよく喋っていた。野球部時代なんて、朝から晩まで声を張り上げていたし、社会人になってからも、職場での雑談やお客さんとの世間話が日常だった。司法書士として独立したばかりの頃も、わからないことを先輩に聞いたり、同業の集まりで情報交換したり、何かと声を出す機会は多かった。でもいつの間にか、話すこと自体が面倒になってきた。「話さなくても済むならそれでいいや」と思い始めたあたりから、私はどんどん無口になっていった。うるさかった自分はどこに行ったのだろう。

忙しさが言葉を奪っていく

結局、話さなくなった一番の原因は「忙しさ」かもしれない。朝から仕事に追われ、スケジュールはびっしり。やることは山ほどある。そんな中で、誰かと話すことが「後回し」になるのは自然な流れだ。でもその「後回し」が積み重なると、気づけば言葉を交わす時間そのものが消えてしまっている。おそらく誰かが話しかけてくれても、「ちょっと待ってて」と断るのが日常になってしまった。自分でもそれが嫌だと感じているのに、忙しさにかまけて気持ちを閉じてしまう。

朝から晩まで対応に追われる日々

一日のスタートは、メールチェックと電話対応。その後すぐに登記書類の確認や役所への問合せ、法務局とのやりとりが始まる。昼食をとる頃には、すでに頭はヘトヘト。午後には来所の相談対応や書類の整理、顧客からの修正依頼など、次から次へと用事が押し寄せる。夕方になると「今日も誰ともちゃんと話してないな」と気づくが、もはやそれを気にする気力もない。ただこなすだけの日々。気がつけば、笑顔も挨拶も形だけになっていた。

声をかけられない雰囲気を自分が作っている

正直に言うと、事務員も話しかけづらいと思ってるんじゃないかと感じることがある。私が常に忙しそうにしていて、ピリピリした空気をまとっているのだから、そりゃそうだ。私自身、余裕がないから雑談に乗る気力もない。だけど、そうやって周囲をシャットアウトしてきたのは、結局自分自身だ。会話のない職場は、自分が望んだものだったのかもしれない。気づいたときにはもう遅く、誰も声をかけてこなくなっていた。

独り言すら減ってきた気がする

昔は、ひとり言でさえ口に出していた。「あれ、どこやったっけ」とか「これミスったかも」とか、自然と声が出ていた。でも最近は、それすら頭の中で完結してしまう。声を発するという行為そのものが減ってきたのだろう。声帯も衰えるんじゃないかと心配になるほどに、沈黙の一日が続く。自分の存在が、誰にも触れられないまま終わっていく日々に、ふと不安を感じることがある。

話すって意外と体力がいる

久しぶりに知人と飲みに行ったとき、やたらと疲れた。たかが会話なのに、終わったあとどっと疲労感が押し寄せたのだ。昔はそんなこと感じなかった。たぶん、日常的に話すことが少なすぎて、「話す筋肉」みたいなものが衰えているのだろう。話すって、ただ口を動かすだけじゃなくて、相手に反応して、自分の感情を込めて、頭を使う総合運動なのだと思う。体力のない日々に、言葉は自然と削られていく。

言葉にしないと気持ちがどこかに行ってしまう

感情って、言葉にしないとどこかに流れていってしまう。嬉しいことも、腹立たしいことも、誰かに話せば整理される。でも話さなければ、胸の中でぐるぐるして、やがて曖昧な不快感だけが残る。司法書士の仕事って、感情を出す場面が少ない。だからこそ、意識的にでも言葉を発する場を作らないと、自分が何を感じているのかすら見失ってしまう。独り言でも日記でも、声にしてみるって、案外大事なんじゃないかと思う。

事務員との距離が絶妙に遠い

事務員とは仲が悪いわけじゃない。でも「仲が良い」とも言いがたい。業務連絡は交わすし、必要な会話はする。でもそれ以上がない。これは私の性格の問題でもあると思う。気を使いすぎてしまう。だから逆に、踏み込めない。踏み込ませない。その結果、お互い気持ちよく働けてはいるが、どこかに壁がある感じがずっと続いている。

仕事はちゃんと回ってるけどそれだけ

業務的には何の問題もない。事務員もよく働いてくれるし、こちらも指示を出すだけでスムーズに進む。だけど、それだけだ。必要最低限のやり取りで一日が終わる。「今日も無言だったな」と思っても、特に問題が起きないからそのままになる。でも、これが「良い職場環境」なのだろうか? ふとした疑問が頭をよぎる。円滑な業務の裏に、何か大事なものを置き忘れている気がしてならない。

ちょっとした雑談ができないまま時間が過ぎる

雑談って、ただの時間つぶしだと思われがちだけど、実は職場の潤滑油だ。ちょっとした笑い話、天気の話、昨日のテレビの感想。それだけでも、空気が和らぐ。だけど、最近はその「どうでもいい話」をする余裕がなくなってしまった。話題がないというより、「話しかけていいのか」と思わせるような雰囲気を、自分自身が作ってしまっている。気がつけば、雑談をしないまま数ヶ月が過ぎていた。

話さなくても平気になった自分に違和感

最も怖いのは、話さなくても平気になってきたことだ。話さないことに慣れすぎて、それが自然になっている。以前の自分なら考えられなかった。でも今は、それが当たり前になっている。人と関わらなくても生きていける環境が整っているぶん、言葉を交わすことがどんどん削られていく。気がつけば、声を出すことそのものに億劫さを感じている。これは、なにかがおかしい。

寂しさを通り越して何も感じなくなってきた

最初は「今日は誰とも話してないな」と寂しく感じていた。でも今は、それすら感じなくなってきている。心のどこかが、麻痺してきているのかもしれない。寂しいと思わないのは、もしかしたら危険信号なのかもしれない。感情のアンテナが鈍っている。誰かと話すことで、少しでもそのセンサーが戻るのなら、意識的にでも会話の機会を増やしたほうがいいのかもしれない。孤独が普通になるのは、やっぱり寂しいから。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。