優しさがしんどいときもある

優しさがしんどいときもある

優しさって、そんなに大事?とふと思う朝

朝、デスクに座ってメールを開いた瞬間、また誰かの「助けてください」が目に入る。「あの先生は優しいから」と紹介されたらしい。もちろん悪い気はしない。でも、心のどこかで「またか…」と思ってしまう自分がいる。誰かを助けることで、自分が壊れていくような感覚。優しさって、そんなに正義なのか?ふと立ち止まりたくなる朝もある。

「いい人」でいることの代償

「いい人ですね」と言われて嫌な気分になる人は少ないだろう。でも、その裏には見えない負荷がある。私は依頼を断るのが苦手だ。「困ってるなら助けてあげたい」そう思って、つい仕事を引き受ける。でもそのたびにスケジュールは詰まり、昼食も抜き、書類に追われる。いい人でいることは、時に自分を犠牲にすることなのだ。

断れない性格が生む業務の積み重ね

例えば、ある日「明日登記をお願いできませんか?」という電話が入った。明らかに無理だと思っても「なんとかします」と答えてしまう。結果、夜中まで書類作成。こういうことが何度もある。断ることは冷たくすることじゃないはず。でも、自分の中では「断る=優しくない」という思考が根強く残っている。

「先生は優しいから」と甘えられる現場

地域密着型の仕事だから、紹介や口コミが大事なのはわかっている。でも、「先生はなんでも聞いてくれる」「あの先生は怒らないから」と言われるたび、複雑な気持ちになる。甘えられるのは信頼の証だと言われても、全てを受け止める体力はもう残っていない。優しさを利用されているように感じる日もある。

やさしさが仇になる瞬間

「優しすぎると損をする」とはよく言うけれど、まさにその通りだ。こちらが丁寧に対応すればするほど、相手の要求がエスカレートすることもある。しかも、それに応えられなかった時には「がっかりしました」とまで言われる。結局、やさしさは時に自分を追い込む武器になってしまう。

本音を言えない苦しさ

「無理です」「できません」それを口にするのがとても怖い。相手を傷つけるのが嫌だから。でも、そのせいで自分の心がすり減っていく。本当は「そんな急に言われても無理だよ」と叫びたい時もある。でも、にこやかに「わかりました」と言ってしまう。自分の本音を押し殺す癖がついてしまった。

頼られても、心がついていかない

「先生にしか頼めない」と言われると、嬉しさ半分、重さ半分。特別な信頼を寄せられているという誇りはある。でも、それに応え続けるのは簡単じゃない。体力も気力も限界に近づくと、「もう頼られたくない」とさえ思ってしまう。自分が心から納得して引き受ける仕事だけをしたい、そんな理想は遠い。

司法書士という仕事の「優しさ消耗戦」

この仕事には「人の感情」に触れる場面が多い。相続や離婚、借金の整理。誰かの人生の重い一部に関わるからこそ、丁寧に、慎重に、そして「優しく」対応する必要がある。でもその「優しさ」が、日々の中で自分をじわじわと消耗させていることも、間違いなくある。

依頼者の感情を受け止めすぎる日々

相続の場面では、親を亡くしたばかりの人が泣きながら相談に来ることもある。離婚の登記の相談に来る方は、心がバラバラの状態だ。私は専門職として冷静でいるべきなのに、相手の気持ちに引っ張られてしまう。帰宅した後もその人の顔が浮かび、夢に出てきたこともある。これもまた「優しさの弊害」だ。

泣き出す相続人、怒鳴る依頼主

あるとき、相続で揉めていた兄妹の間に入ることになった。妹さんが涙を流して話す一方で、兄は怒鳴り散らす。私は間に立って何度も説明し、調整したけれど、結局どちらからも「もっとちゃんとやってよ」と言われた。中立であろうとするほど、感情の板挟みになる。正解のない場面に、何度も立たされている。

自分の感情はどこへ消えたのか

感情を抑えて相手に寄り添っていると、自分が何を感じているのか分からなくなる。疲れているはずなのに、無理に笑ってしまう。イライラしているはずなのに、表に出せない。誰かの感情を優先しすぎると、自分の感情はどこかへ消えてしまう。これが続くと、自分を見失う。

「気を遣うこと」が当たり前の空気

「気が利くね」と言われるのは、ありがたい。でもそれは裏を返せば「常に気を遣ってるね」ということでもある。依頼者だけでなく、事務員さんや関係者にも気を配る。緊張感が抜けない日々。そうしているうちに、自分の「素の感情」を出す場がどんどん減っていく。

事務員さんとの距離感に悩む

一人事務所なので、事務員さんとの距離は物理的にも心理的にも近い。でも、近すぎると気を遣う。例えば「ちょっと早めに帰ってもいいですよ」と声をかけても、相手が本音で「はい」と言える関係なのか、わからない。こちらが優しくすることで、逆に気を遣わせているのかもしれないと不安になる。

「先生」扱いがかえってつらい

「先生」と呼ばれるたびに、どこか自分が演技をしているような気がしてしまう。尊敬していただけるのはありがたい。でも、私はただの45歳の独身男で、特にカリスマ性があるわけでもない。「先生」という立場に応えなきゃ、という気負いが、私の優しさを無理やり引き出してしまっている気がする。

優しさと孤独の境界線

「優しさ」は人とのつながりの中で生まれる。でも、そのつながりが自分を苦しめるなら、いっそ距離を取ったほうが楽だと思う日もある。誰かに優しくするたび、誰にも優しくされていない自分が浮かび上がる。ふとした瞬間に、ぽつんとした孤独が押し寄せる。

モテない男の優しさなんて誰も求めてない

私は若い頃から「やさしいね」と言われ続けた。でも、それが恋愛に結びついたことは一度もない。むしろ、「やさしい人」で終わる。異性に頼られはするが、好意は向けられない。優しさが魅力になるのは、それが“余裕”として見える人だけ。疲れてボロボロな優しさには、誰も惹かれない。

恋愛よりも仕事を優先してきたけれど

20代後半、30代、ずっと仕事を優先してきた。いつか落ち着いたら…と考えていた。でも気づけば40代後半。今さら誰かと向き合うエネルギーはない。仕事で優しくして、家ではひとり。気を遣い続けた先にあったのは、誰もいない部屋だった。これが自分の選んだ人生なのか、時々考えてしまう。

一人の食事、一人の夜の空しさ

夜遅くまで働いた帰り、コンビニ弁当を買って帰る。テレビをつける気力もなく、スマホをぼんやり眺める。誰かと他愛もない会話ができたら、それだけで救われる気がする。でも、そんな相手はいない。優しさを外にばかり使って、自分には何も残っていないことに気づく。

自分を守るための「ちょっとの冷たさ」

優しくしすぎると、自分が壊れる。最近、ようやくその事実を受け入れられるようになってきた。だからこそ、自分を守るための「ちょっとした冷たさ」が必要だと感じるようになった。誰かを助ける前に、自分の体力と心を守る。それは逃げでも怠慢でもなく、長く続けるための手段だ。

全部に応えなくてもいいと思えるようになるまで

全てに応えようとするのをやめたら、少しだけ心が軽くなった。依頼を断る勇気、本音を伝える勇気。それは優しさを手放すことではなく、自分を大切にすること。ようやく、そう思えるようになってきた。まだぎこちないけれど、練習中だ。

優しさは余裕があるときに出すもんだ

本当の優しさって、きっと余裕の中にある。心と体が満たされていて、はじめて人に優しくできる。空っぽの状態で無理に優しさを絞り出しても、相手にとっても自分にとっても良くない。これからは、自分の余白を守ることを一番に考えたい。優しさは、それからでも遅くない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。