レジの「ありがとうございます」が、今日いちばんの会話だった

レジの「ありがとうございます」が、今日いちばんの会話だった

静まり返った事務所で、音を立てるのはプリンターだけ

午前9時の開業。鍵を開けて誰もいない事務所に入ると、冷たい空気と静寂に迎えられる。唯一の事務員さんは週の半分しか来ない。電話も鳴らず、依頼もポツポツ。たまにプリンターがガシャガシャと音を立てると、少しホッとするくらいには、人の気配に飢えている。司法書士という仕事は「人と接する職業」だと思われがちだが、実際には書類と向き合う時間がほとんどだ。目の前の人の人生に関わりながらも、心の奥で自分は、誰にも関わっていないような気がすることがある。

朝の挨拶は、事務員さんの「おはようございます」の一言

週に数回の「おはようございます」は、まるで貴重な資源のようだ。その日は少し早く目が覚めて、珈琲を淹れる手にも気合いが入る。返す言葉が噛まないように、とまで思っている自分が滑稽に思える。だが、これが自営業の現実だ。誰かが言っていた。「人は声を発しないと、心が閉じていく」って。少し大げさに聞こえるかもしれないけれど、ひとこと交わせる誰かの存在って、想像以上に大きい。

依頼人が来ない日もある、それが現実

司法書士は、テレビに出るわけでもなければ、商店街で呼び込みができる職業でもない。だから、飛び込みの相談者なんてほとんどいない。何も予定がない日は、本当に「何も」ない。相談が一件もなく終わる一日を、誰とも話さずに過ごす。その空白を埋めるように、手帳に「書類整理」とか「登記簿チェック」と書き込んでは、自分をごまかす。寂しさよりも、虚しさの方が強い日もある。

コンビニのレジ、それは会話の練習場

コンビニでの買い物が、まるで「人と話すための儀式」になっている自分に気づいたのは、昨年の冬だった。おにぎり一個だけ買うのも、何かしら声を出す機会が欲しいからだ。別に用もないのに、「箸もらえますか?」と聞いたり、「ポイントカード忘れました」とか言ってみたりする。レジで交わされるやり取りはほんの数秒だけれど、それがあるのとないのとでは、心の乾き具合が違う。

「袋いりますか?」の問いに、声がうまく出ない

ある日、のどがカラカラに乾いていて、「はい」と答えるのにも詰まったことがある。喉ではなく、心が緊張していたのだと思う。レジに立つ若い店員さんにとっては、ただの定型文。でも、こちらにとっては今日初めての「会話」。だから、緊張するし、失敗したくない。うまく返せた日は、ちょっとした達成感があるのだ。「袋、お願いします」──その一言を丁寧に言う自分に、少し笑ってしまった。

名前も知らないレジの方が、実は心の支え

毎朝立ち寄るコンビニには、だいたい同じ時間に同じレジの人がいる。名前も知らないし、向こうもこちらのことなど記憶していないだろう。それでも、「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」の声が、妙に優しく聞こえるときがある。疲れている日、眠れなかった日、嫌な連絡を受けた日──そのすべてに、何も知らないその人の声が、ほんの少しだけ救いになる。会話じゃないけど、交信のようなものだ。

相談を受ける側の人間が、相談できない現実

司法書士は、法律の専門家として、他人の悩みや不安に日々触れている。だが、自分の悩みを相談できる相手は、意外といない。職業柄「しっかりしている」と思われがちで、実際に弱音を吐くと「そんな風には見えない」と言われてしまう。それが面倒で、最初から黙ってしまうことが多い。相談されることに慣れてしまうと、相談することが怖くなる。まるで感情が麻痺してしまったみたいに。

誰かの問題を解決しながら、自分の悩みは棚上げ

「この人は誰にも頼れないんだろうな」と感じる依頼者と話していると、自分もそうかもしれないと気づくことがある。相手を励ましながら、心の中では「俺もキツい」と思っている。でも、言えない。司法書士は裏方の裏方。表舞台には出ないけれど、人生の節目に立ち会う。だからこそ、支える側が崩れてしまったら意味がない。そう思って、自分を無理やり黙らせてしまうことも多い。

強く見せなきゃと思ってしまう性分

「士業」と名のつく仕事は、どうしても世間から「堅実」「真面目」「頼れる」みたいな印象を持たれる。それ自体は悪いことじゃないけれど、内面とギャップがあると、苦しくなる。実際には不安もあるし、怒りもあるし、寂しさだってある。でもそれを出せない。出した瞬間に、「あの人、頼りないね」と言われてしまう気がして。強がりが日常化して、素直に弱音を吐けない性格になってしまった。

弱音を吐ける相手がいない職種

他の司法書士と飲みに行く機会もほとんどない。たまにある業界の集まりも、どこか競争のにおいがして、安心できない。異業種の友人には話してもピンとこないし、家族も遠くにいる。結局、「言わなくていいか」と飲み込んでしまう。その積み重ねが、無口な性格を加速させる。レジの人との数秒の会話が、そんな僕にとっての、唯一「無防備でいられる時間」なのかもしれない。

だから、僕も「ありがとう」を忘れないようにしている

何かをしてもらったときに、「ありがとう」と言う。これは、相手のためでもあるけれど、自分のためでもある。自分の言葉で人とのつながりを感じることができるから。コンビニのレジでも、事務員さんにも、依頼人にも、できるだけちゃんと伝えるようにしている。そうすることで、少しだけ「人間らしく」いられる気がしている。感謝は義務ではなく、僕にとってはささやかな「生存確認」だ。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。