気づけば鏡を見なくなった日々
昔は出かける前に鏡の前でネクタイの角度を気にしたり、ワックスを手に取って髪型を整えたりしていたものです。けれど最近は、朝起きて着替えるだけで精一杯。スーツに袖を通しても、シワが寄っていようが、ボタンが1つ外れていようが気にならなくなってしまいました。そんな自分にふと気づいたとき、軽くショックを受けるんですが、忙しさを理由にまた流されていく。このまま、自分に関心を持たないまま歳を取っていくのかな…と、ふと不安になる瞬間があります。
昔は少しは気にしていた服装のこと
司法書士になりたての頃、裁判所や法務局へ行くたびに、「清潔感ある格好を」と意識していました。シャツはちゃんとアイロンがけし、靴も定期的に磨いていました。なぜかといえば、やっぱり仕事相手に「信頼されたい」という思いがあったからでしょう。あと、正直に言えば、ちょっと女性ウケも狙っていた部分があったと思います。実際に誰かといい感じになることはなかったんですが、それでも「見られているかもしれない」という意識は、服装への気配りに繋がっていたんだと思います。
スーツのネクタイに悩んだあの頃
朝の15分をネクタイの色選びに費やしていた頃が懐かしいです。青系で誠実に見せようか、ちょっと赤を入れてやる気を出して見せようか…今思えば誰もそんなに見てなかったかもしれません。でも自分の中では「今日は勝負の日だ」なんて、気合いを入れる儀式でもあったんですよね。あの気持ちはどこへ行ってしまったんでしょう。
カジュアルデーに悩んだ過去の自分
金曜日だけ「ノーネクタイでいい日」と自分にルールを決めた時期がありました。けど逆に困ったんですよね。何を着たら“カジュアルすぎず、でも堅すぎず”なのか、わからない。服屋の店員に聞くのも気恥ずかしくて、雑誌をこっそり立ち読みしてました。結局、無難なポロシャツを2枚買って、ローテーションして乗り切っただけでしたが、それでも「人の目」を少しは意識していたんだなと、今なら思います。
今では着られればいい、の境地
今の僕は、毎朝選ぶのは3着のスーツのどれか、というだけ。どれももう5年以上着ていて、ちょっとくたびれた感が出ています。けど、それを気にしてる時間がもったいないと感じてしまうんです。裁判所へ行っても、相手の顔をまともに見る余裕すらないこともある。そんな状態で服装に気を使えって?無理に決まってる、と開き直っている自分がいます。
同じジャケットを着回す毎日
「これ、昨日も着てたっけ?」と思いながら袖を通すのが日常です。事務員さんから何も言われないので、たぶん誰も気にしてない。いや、もしかしたら気にされているけど、あえてスルーされてるだけかもしれません。でも、それを気にする元気がないんです。買い替えようという気にもならない。服屋に行くのがもう面倒なんですよね。若い頃は「季節の変わり目=買い物」だったのに。
誰も見ていないという諦めの境地
この仕事、基本的に他人と密に関わる時間が短いんです。特に独立して事務所を持ってからは、人と会う頻度がさらに減った。昔は事務所に来るお客さんや法務局の窓口の人の視線を気にしていたけれど、今では「誰も俺なんか見てない」が口癖に。でも、それって寂しさの裏返しかもしれません。誰かに見てもらいたいという気持ち、どこかにまだ残っているのかもしれません。
忙しさが「無関心」を育ててしまった
毎日やるべきことに追われていると、自分のことに手が回らなくなってきます。服装なんて「生きていく上で必要な最低限の部分」くらいの感覚になってしまうのも無理はありません。でもふとした瞬間に、鏡に映った自分の疲れた顔とヨレヨレの服を見て、「ああ、これが今の自分か」とがっかりすることもあるのです。
朝の時間との闘いがオシャレを削る
7時に起きて、朝食抜きで事務所に向かう生活。余裕なんてありません。髪もクシでざっと整えるだけ。下手すれば寝癖もそのまま。アイロンなんてどこに仕舞ったかすら忘れました。少しでも時間を節約したくて、前の晩にスーツを選んでおくことも考えたけど、結局それすら面倒。時間と心の余裕がなければ、オシャレなんて夢のまた夢です。
一人事務所の現実と気力の低下
人がいれば「見られている」という意識が芽生えますが、一人事務所ではそれがない。事務員さんもいい意味で放っておいてくれるし、僕も何も言わない。だから、服装に限らず、すべてが「まあいいか」になっていくんです。そんな生活が続くと、気力そのものが落ちていく。気力が落ちると、外見に気を使う余裕も消えていく…完全な悪循環です。
「誰のためのオシャレか」を考えると
昔は“人にどう見られるか”がオシャレの動機でした。でも今は、そもそも人と接する機会が減り、「見られている」という感覚すら希薄になっています。オシャレをする意味が見いだせない、というのが正直なところ。でも、自分のために身なりを整えるという考え方も、どこかにあるべきかもしれません。
異性の目を気にする余裕がない
恋愛から遠ざかって久しいです。というか、最初から縁がなかったと言ったほうがいいかもしれません。だから「誰かに好かれたい」という気持ちがほとんどない。オシャレ=モテたい、という公式が自分の中で消えた瞬間に、服選びもどうでもよくなってしまいました。なんというか、「色気」がなくなった、そんな感じです。
そもそも人に会う予定がない
事務所に来るお客さんも少なく、外出といえば登記申請か銀行くらい。最近では郵送やオンライン対応が増えて、ますます外へ出る理由がなくなっています。誰かに会う予定がなければ、自然と「見た目」も意識しなくなるもの。出不精とオシャレ無関心はセットなんですよね。
好かれようという意識の欠如
何事にも「どうせ俺なんて…」という思考がベースになってしまっていて、誰かに好かれよう、評価されようという意識が希薄です。そうなると、見た目を整える動機がほとんどなくなります。まさに「自分に期待していない」状態。そんな自分が、ふと鏡を見て「何かが違う」と思うようになったのは、最近の変化かもしれません。
少しだけでも自分を大切にしてみようか
すべてを完璧にするのは無理でも、何か一つでも「自分のために」やってみようかと思うことがあります。新しい靴を一足買う、髪を整える、古い服を一着だけ捨てる。小さなことですが、それだけでも少しだけ前向きになれる気がします。忙しい毎日だからこそ、意識的に「自分に手をかける」ことが必要なのかもしれません。
毎朝のルーティンに一手間を
コーヒーを淹れるついでに、アイロンをあててみる。そんな小さな習慣でも、自分の気持ちに変化が起きるのを感じます。ほんの少し「整える」だけで、意外と一日がうまく回ることもあるんです。自分の機嫌を自分で取る。その一環としてのオシャレ、ありかもしれません。
服を買うことが自己肯定感につながるかも
先日、思い切ってジャケットを一着だけ新調してみました。たったそれだけなのに、不思議と自分がちょっとマシな人間に思えたんです。「おっ、今日の俺、悪くないぞ」と思えたら、少しだけ心が軽くなりました。服はただの布切れかもしれませんが、自分へのプレゼントだと思えば意味も変わってきます。まだ完全には戻れないけれど、少しずつ、自分を取り戻していきたいと思っています。