ほんとは誰かに頼りたかった

ほんとは誰かに頼りたかった

「頼りたい」と思っても口にできない日常

毎朝、目が覚めて布団の中で「今日もやらなきゃ」と自分に言い聞かせる。誰かに「もう無理だ」と言えたらどれだけ楽だろう、と思うけど、それを口に出すことすら難しい。司法書士という立場、事務所を構えて仕事をしているという責任感。それが私の「弱音」を押し込める理由だ。けれど本当は、誰かに「つらいよね」と言ってもらえたら、それだけで少しは救われた気がするのだ。

弱音=甘え?そう思い込んできた40代

若い頃は「仕事は厳しいもんだ」「我慢してこそ一人前」と刷り込まれて育った。自分の父も愚痴一つこぼさずに働き続けた人だった。だからか、私も弱音を吐くことに抵抗がある。40代になった今も、何か困ったことがあっても「自分でなんとかしなきゃ」と思い込んでしまう。結果、抱え込んで体を壊す。誰かに頼ることは決して甘えじゃないと、頭ではわかっているのに。

男だから、経営者だから、司法書士だから

肩書きが増えるたびに、自分の中の「頼ってはいけない」気持ちが強くなった気がする。「男なら」「経営者なんだから」「お客さんに安心感を与えなきゃ」。そんなプレッシャーが、日々の会話の中で少しずつ自分の首を締めてくる。周囲には「頑張ってますね」と言われるけど、実際はその“頑張り”が限界にきている。

「自分がやらなきゃ」の呪縛

結局、「誰かがやってくれる」なんて期待できないし、頼んだところで思ったように進まなければ、それはそれでストレスになる。だから、無理をしてでも自分でやる方が早い。でもその繰り返しが、いつの間にか「自分で背負い込むクセ」になってしまった。逃げ場がないってこういうことか、と思う。

助けを求めるのが下手すぎる自分

誰かに頼りたい。でもその一言が出てこない。何度も喉まで出かかったことはあるけれど、最終的には笑ってごまかしてしまう。相談される側には慣れていても、相談する側に回るのはどうしてこんなにも怖いのか。自分の弱さを見せることで、崩れてしまう何かがあるように感じてしまうのだ。

本音を言える相手がいない現実

昔は一人や二人、何でも話せる友人がいた。でも仕事にのめり込み、年齢を重ねるごとに疎遠になった。気づけば、日常の会話のほとんどは業務連絡だけ。本音を吐き出す場所がないまま、どんどん心の中に澱のような疲れが溜まっていく。夜、テレビをぼんやり見ていても、ふと涙が出る時がある。

友人もいない、飲みに行く人もいない

「仕事が終わったら飲みに行こう」と言える相手がいるだけで、救われることもある。でも、私にはもうそういう人がいない。誘うのが苦手というより、断られるのが怖い。だから最初から声をかけない。気づけば、事務所と自宅の往復だけの日々。そんな自分を情けないと思いつつも、どうにもできない。

事務員さんには言えないこと

唯一のスタッフである事務員さんには、いつも助けられている。でも、だからこそ余計に言えない。「実は今日、もう気力が残っていない」なんてこと、口にできるわけがない。雇っている側としての自覚が、自分の限界すら言わせてくれないのだ。

雇っている立場だからこその孤独

スタッフと仲が良いと言っても、やはり立場は上下関係にある。冗談は言えても、本音までは共有できない。たとえば「今日、ほんとにつらくて…」なんて話せば、かえって心配をかけてしまうし、相手に余計な負担を背負わせてしまう気がする。そう思うと、笑ってごまかすしかないのが現実だ。

弱さを見せたら信頼が崩れる気がして

お客さんの前ではスタッフの前でも「大丈夫なフリ」を続ける日々。だけど、その「フリ」が自分の首を締めている。誰かに「しんどい」って言えたら、少しは楽になるのかもしれない。でも一度見せた弱さは取り戻せないような気がして、それもまた怖いのだ。

実家にも帰れず、誰にも頼れず

ふるさとの母に電話をすることもある。けれど、こっちの疲れやつらさは言えない。向こうはもう年齢的に心配をかけたくない存在だし、頼るどころか支える側になってしまった。結局、誰にも本音を言えないまま、今日もひとり、キーボードを叩いている。

親には心配かけたくない

「最近どう?」と聞かれたら、つい「まあまあ順調」と答えてしまう。たとえ胃が痛くて眠れない夜が続いていても、「元気だよ」と返す自分がいる。親に心配をかけるぐらいなら、つらいのを飲み込む方がましだと思ってしまう。でも、それが積もると、ふとした時に涙がこぼれるのだ。

兄弟姉妹とは疎遠、相談できない

兄弟とは数年に一度、年賀状でやり取りをする程度。何かあれば連絡しようとは思うけれど、何かがあっても結局連絡できない。今さら相談するのも気まずいし、「どうしたの?」と聞かれるのもつらい。頼る家族がいないというのは、想像以上に孤独なことだと感じている。

「専門職」だからこその閉じた世界

司法書士という仕事は、表向きは「士業」としてかっこよく見えるかもしれない。でも実際は、閉じた業界で、誰もが孤独と闘っている。表では堂々と、でも裏では誰にも言えない不安を抱えている。私もそのひとりだ。

同業者との距離感とプライドの壁

研修会や会合で顔を合わせることはあるけれど、本音で話せる関係にはなりにくい。同業者同士、どこか競争心があって、悩みを打ち明ければ「仕事うまくいってないのかな」と思われるのが怖い。だから、うなずき合うだけで終わってしまう。結局、また独りに戻る。

それでも誰かに「わかるよ」と言ってほしかった

忙しい日々の中で、たった一言「それ、つらいよね」と言ってくれる人がいれば、救われるのに。そんな言葉があるだけで、人は少しだけ前を向ける。今でも私は、誰かにそう言ってもらえる日をどこかで期待している。

共感のひと言が、救いになることもある

何もしてくれなくていい。ただ、「大変ですね」とか「わかりますよ」と言ってもらえるだけで、心が少し軽くなる。実際、SNSで誰かの言葉を読んで泣いたことがある。そのくらい、人の共感には力があるのだ。

何気ないLINE、誰かのコラムに救われた夜

ある夜、ふと届いた知人からのLINEに「最近どう?無理してない?」と書かれていた。それだけの言葉なのに、涙が出た。ああ、ちゃんと見てくれている人がいるんだなと思った。その日、久しぶりに夜ぐっすり眠れた。

頼れる存在を探すことは、弱さじゃない

「頼りたい」と思うのは、人間として当たり前のこと。それを否定してしまうのは、自分を追い詰めるだけだと、ようやく少しずつ気づいてきた。人に頼ることは、決して敗北じゃない。共に生きることの一歩なのだ。

人とのつながりをあきらめないこと

孤独を受け入れることと、孤独を求めることは違う。つながりを求める自分を否定せず、少しずつでもいいから声を発してみることが大切だと、今は思う。もしかしたら、その先で救われる出会いがあるかもしれないから。

司法書士として、人として、少し肩の力を抜く練習

完璧じゃなくていい。人間らしさを出すことで、むしろ周囲との関係がやわらかくなることもある。私は今、ようやく「頼ってもいいかも」と思えるようになってきた。

ひとりで完璧を目指すのはやめてみる

すべて自分でやろうとするのはやめた。少しずつ、信頼できる人に任せるようにしてみた。失敗することもあるけれど、それでも「ひとりじゃない」と思える瞬間が増えた。その小さな変化が、今の私を支えてくれている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。