「話しかけられるのがつらい」と感じる瞬間
朝から晩まで、司法書士としての仕事に追われている。書類は山積み、電話は鳴りっぱなし、クライアント対応で頭も心もすり減っている。そんな中で「ちょっといいですか?」と話しかけられるだけで、心の中にズシンと重りが落ちる感覚になる。相手に悪気がないことは分かっている。それでも、その一言に反応するだけのエネルギーが残っていないことがあるのだ。
ふとした時に声をかけられる重み
例えば、昼休み。ようやく一息つけると思った瞬間、「これってどうすればいいですか?」と声がかかる。まるで水面に浮かびかけた瞬間に、また沈められるような気持ちになる。自分の中で「今は休憩」と線を引いていても、それを飛び越えてくる言葉には防御のしようがない。そんな時、少しずつ心がすり減っていくのを感じる。
忙しさと心の余裕のなさ
司法書士の仕事は、地味に見えて実は情報と判断の連続だ。一つのミスが大きなトラブルに繋がることもある。そのプレッシャーの中で、次々と話しかけられると、どこかで糸が切れてしまいそうになる。「今はやめてくれ」と口に出せないまま、ただ曖昧に笑ってしまう。その曖昧さが、さらに自分を追い詰めていく。
なぜ話しかけられるのがしんどいのか
話しかけられること自体が悪いわけではない。問題は、そのタイミングと、自分の心の状態だ。たとえば、忙しさのピークや、考えごとをしている時に突然声をかけられると、思考が中断されてしまう。それが何度も続くと、「またか」と思ってしまう。そうなると、話しかけられること自体に拒否反応が出てくるのだ。
対人スイッチが切れている時間帯
一日のうち、どうしても「今は誰とも話したくない」という時間がある。例えば、朝一番や仕事終わり。事務所での静かな時間が、自分をリセットする大切な時間なのだ。そんな時に話しかけられると、反射的に「無理だ」と思ってしまう。でも、それを口に出すこともできず、ただ内心で葛藤している自分がいる。
昼休みにまで緊張感が続く
たまの昼休み、コンビニ弁当を片手にボーッとする時間すら奪われることがある。「すみません、今ちょっとだけ…」という言葉に「いや、無理なんだって」と思いながらも「うん、いいよ」と返してしまう。仕事の効率以前に、心の休息を取る余地がない。このループに疲れてしまうことが、実は一番つらいのかもしれない。
ひとりの時間がないと呼吸ができない
誰とも話さず、ただ一人で机に向かっている時間。それが自分にとっての「呼吸」だ。だけど、それが途切れると、まるで酸素が薄くなるような息苦しさが襲ってくる。対話は嫌いじゃない、でも常にオンでいるのは無理なのだ。その境目を理解してもらうのは難しいが、そこが理解されないことがまた、孤独を深めていく。
気を遣いすぎる性格のつらさ
自分で言うのもなんだが、かなり気を遣うタイプだ。話しかけられたら「ちゃんと返さなきゃ」と思ってしまう。だからこそ、気軽な雑談すらもプレッシャーになってしまう。「適当に返しておけばいい」と思えたらどんなに楽だろう。でも、それができないのが自分なのだ。
「ちゃんと答えなきゃ」のプレッシャー
例えば、「この書類ってこれでいいですか?」と聞かれた時。頭の中では、前提条件や過去の事例を総動員して答えを探そうとしてしまう。でも、実際はそんなに重く考えなくていいことも多い。だけど、性格的にスイッチが入ってしまうのだ。その真面目さが、自分を苦しめている。
ただ「うん」と返すことさえ負担になる時
本当に疲れていると、「うん」と相槌を打つことすら億劫になる。でも、無視するのはもっと気が重い。だから結局、笑顔を作って「そうだね」と返す。でもその裏では、心がどんどん削れていっているのが分かる。これは甘えではない。本当に、限界に近づいている証拠だ。
司法書士という職業特有の「聞かれるつらさ」
司法書士の仕事は、正確性が命だ。だからこそ、ちょっとした質問にも「間違えてはいけない」というプレッシャーがついてくる。しかも、相談されることの多くが法律や手続きに関わる内容なので、答える側の責任も重い。そういった日常の中で、話しかけられること自体が心理的な負担になってくるのは、ある意味で職業病かもしれない。
正確さを求められることの重圧
「これで間違いないですよね?」と聞かれると、必ず裏取りをして確認する癖がある。それが正しいやり方なのは分かっているが、毎回それを繰り返すのは消耗が激しい。話しかけられるたびに、ミスのリスクと闘うことになる。その心理的疲労が、じわじわと積もっていく。
相談=答えを出さなければという呪縛
相談されたら、何かしらの「答え」を出さなければいけない。そう思い込んでしまっている。だからこそ、「ちょっと聞きたいことが…」の一言に、ドッと肩が重くなる。実際には、話すことで解決しなくてもいいことも多いのだが、司法書士という職業柄、どうしても「解決」まで持っていこうとしてしまうのだ。
「無言の時間」がくれる安心感
誰とも話さない時間。それは決して「孤独」ではなく、「回復」だ。静けさに包まれると、頭も心も少しずつ整ってくる。話しかけられないことに感謝する時間があるというのは、ある意味で贅沢なのかもしれない。
会話がないからこそ通じる関係
長年付き合いのあるお客さんや知人とは、言葉を交わさなくても分かり合えることがある。無理に話すよりも、静かに同じ空間にいるだけでいい。そういう関係性は、年齢を重ねて初めて得られるものかもしれない。
話さなくても一緒にいられる価値
話をしないといけないというプレッシャーから解放されると、人との関係が少し楽になる。特に、自分のように独身でひとり暮らしだと、誰かと一緒にいても話さなくていい時間が、実は一番ありがたかったりする。黙って隣に座っていてくれるだけで、救われることもある。