「先生」と呼ばれたくない司法書士です

「先生」と呼ばれたくない司法書士です

「先生」と呼ばれるたびに感じる違和感

司法書士という職業柄、どうしても「先生」と呼ばれることが多い。電話でも対面でも、ほとんどの人が開口一番「先生」と言ってくる。でも、そのたびにどこか背中がムズムズするというか、落ち着かない気持ちになる。自分にはその呼び名がどうにも似合っていない気がして、まるで借り物の衣を着せられたような感覚だ。威厳とか権威とか、そんなものを求めて司法書士になったわけじゃない。もっと泥臭くて、必死で、ただの「稲垣さん」でいたいのに。

そもそも“先生”ってなんなんだ

「先生」と聞くと、学校の教師とか、医者とか、昔から偉い人の代名詞みたいな印象がある。でも実際にこの仕事をしていると、そんな立場じゃないと痛感する。ミスすれば怒られるし、スケジュールは無理やり詰め込まれるし、ストレスで胃は痛むし、誰よりも普通に働いてるだけだ。例えば、スーパーで値引きシールの貼られた弁当を選びながら「これが“先生”の現実か」と虚しくなることもある。名ばかりの“先生”に何の意味があるのか。

威厳を演出する肩書きが重荷になる

「先生」と呼ばれると、自然と相手との間に壁ができる。そしてその壁は、こちらにもプレッシャーを与える。「先生なんだから、間違えちゃいけない」とか「完璧でなければならない」とか、勝手に自分を追い詰めてしまう。ある日、依頼者に書類の説明をしていたときに「さすが先生、わかりやすい」と言われたが、内心「そんなことないのに…」と苦笑いするしかなかった。むしろ、もっと噛み砕いて説明できなかった自分を反省していたくらいだ。

自分にそんな器があると思えない

自分自身のことを、そんなに立派な人間だとは思っていない。何かを教える余裕もなければ、人を導く自信もない。だから「先生」と呼ばれるたびに、どこか嘘をついているような気分になる。高校時代、数学の補習で「先生」に叱られまくっていた自分が、今では「先生」と呼ばれていることが、なんとも不思議で、少し滑稽でもある。そういう自分の過去も、今の自分の未熟さも、肩書きでは隠せないと思っている。

司法書士=偉い人? そんな幻想はやめてくれ

世間では「司法書士ってすごいんでしょ?」「法律に詳しくて頭いいんですよね?」なんて言われることがある。そんなときは、つい笑ってごまかす。でも実際には、日々の業務に追われ、ミスを恐れながら書類と格闘し、なんとか食っていってるだけの生活だ。華やかなものなんてない。だからこそ、無理に持ち上げられると、かえってしんどくなる。等身大の自分を見てほしいし、「偉い人」じゃなく「近所の人」として接してほしい。

依頼者との距離ができる「先生」という呼び方

たとえば、初めて事務所に来た年配の依頼者に「先生、お時間を取らせて」と言われると、つい構えてしまう。こちらはただ、相談に来てくれた人の話を聞きたいだけなのに、「先生」と言われた瞬間に空気が変わる。相手が緊張してしまい、本音を引き出すのが難しくなる。そういうときこそ「先生」じゃなく「稲垣さん」と呼んでもらえたら、お互いにリラックスできて、もっと良いコミュニケーションが取れるのに、と思ってしまう。

対等な関係でいたいのに

仕事を進めるうえで、依頼者とは対等な関係でありたい。上下関係ではなく、同じ目線で「一緒に解決していく」というスタンスを大切にしている。けれども、「先生」という言葉がその対等な関係を崩してしまうことがある。「これはお任せします」「先生が言うなら」といった言葉が、責任を一方的に押しつけられているようで苦しい。「一緒に考えましょう」と言っても、「でも先生ですから」と返されてしまうと、もう何も言えなくなる。

心の中ではいつも「ただの労働者」

結局のところ、私は「ただの労働者」だと思っている。誰かに仕える立場で、報酬を得て生きている。特別な存在でもなければ、尊敬されるようなことをしているわけでもない。毎日、書類を作り、登記申請をし、電話に追われ、疲れて家に帰る。そんな日々を「先生」と呼ばれて美化されるのは、少しだけむずがゆい。コンビニで立ち読みしてる姿を見た依頼者に「先生もジャンプ読むんですね」と言われたときは、なんとも言えない気持ちになった。

「先生」と呼ばれて得することなんてない

確かに「先生」と呼ばれることで、ちょっとした優遇を受ける場面がないわけではない。でも、そのたびに「こんなことでいいのか」と罪悪感のようなものがわいてくる。肩書きに頼った対応より、人としての信頼を築きたい。肩書きがあることで人との距離が生まれ、かえってやりにくくなることの方が多い。そう考えると、むしろ「先生」と呼ばれることには、何の得も感じないし、正直、ありがた迷惑に近いのかもしれない。

周囲の勝手な期待と誤解

「司法書士の先生なんだから、こうあるべき」という無言の圧力を感じることがある。実家の親戚や友人からも「立派になったね」と言われるたびに、どこか肩身が狭くなる。実際の私は、家ではYouTubeを見てだらけているし、コンビニのレジで小銭を落としてアタフタする普通の男だ。そんな自分と「立派な先生」のイメージとのギャップに、なんとなく嘘をついて生きているような居心地の悪さがつきまとう。

ミスしたときの落差がデカい

一度、大きな申請ミスをしたとき、依頼者から「先生にもこんなことあるんですね」と言われたことがある。そのときの“がっかり感”が、空気ににじんでいた。自分はミスをする、普通の人間だとわかっていても、「先生」という肩書きが、それを許さない雰囲気を作ってしまう。むしろ最初から「ただの司法書士」と思っていてくれたら、少しは許されやすかったのかもしれない。肩書きがあることで失う信頼も、あるのだ。

自分を守る仮面が逆にプレッシャーに

「先生」と呼ばれることで、自分がちゃんとしてなければならないというプレッシャーが常につきまとう。寝不足でも、落ち込んでいても、平常心を装って仕事をこなさなければならない。そんな仮面をつけ続けることに、だんだん疲れてきている。「もっとラクに仕事がしたい」と思っても、「先生」の仮面がそれを許さない。本当は、コンビニ前で缶コーヒーを飲んでるただのおっさんなのに。

自分の名前で呼ばれると、ちょっとホッとする

「稲垣さん」と呼ばれたとき、肩の力がふっと抜ける。何気ないことだけど、その呼び名だけで、相手と自然に会話できる気がする。子どものころから「先生」って言葉に緊張していたから、今でもその印象が抜けないのかもしれない。「先生」と呼ばれることで自分が誰か違う人になってしまうような違和感、それがなくなるのが「名前」で呼ばれることのありがたさだ。

「先生」じゃなくて「稲垣さん」でいい

たまに長年の付き合いがある依頼者が、気さくに「稲垣さん、これどう思う?」と話しかけてくれることがある。そういう瞬間は、こちらも安心して「正直に」話せる。余計な見栄や建前を外して、等身大の言葉で会話ができる。それだけで、仕事のやりやすさも、気持ちの軽さも全然違う。だからこそ、もっと多くの人に「先生」ではなく「稲垣さん」と呼んでもらいたいと思うようになった。

距離が近くなると、仕事もしやすい

肩書きではなく人間として接してもらえることで、信頼関係が生まれやすくなる。たとえば、ちょっとした雑談から相手の状況が見えてきて、結果的に手続きをスムーズに進められることもある。逆に、先生・依頼者という縦の関係だと、どうしても遠慮が入り、必要な情報が引き出せなかったりする。だからこそ、対話の入り口としての呼び方は、実はすごく大事なポイントだと感じている。

「先生」と呼ばれたい人もいるけど

中には「先生」と呼ばれることでモチベーションが上がる人もいる。それを否定するつもりはないし、それが支えになっている人もいるだろう。でも、自分にはその肩書きがどうしてもしっくりこない。むしろそれがあることで、かえって自分を見失ってしまう気がする。だから今後も「先生」と呼ばれるたびに、少し苦笑いしながらも、「ただの司法書士です」と心の中でつぶやくんだろうと思う。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。