夜道でふと泣きたくなった日がある
仕事帰りの夜道、何でもないような風景が急に心に沁みる日がある。そんなとき、ふと立ち止まりたくなる。誰にも見られない暗がりの中で、ただ一人、立ち尽くしていると、こらえていた涙がこぼれそうになる。司法書士として日々人の悩みや問題に向き合っていると、自分の気持ちを置き去りにしてしまうことがある。感情を封じ込めて、ただ処理するだけの毎日。それでも、泣いてはいけないと思っていた。でも、あの夜だけは少しだけ泣いてもいいかと思えた。
ただ、疲れていただけなのかもしれない
その夜、特別な事件があったわけでもない。依頼人に怒鳴られたわけでも、取引先と揉めたわけでもない。ただ、朝から書類に追われ、電話対応に振り回され、思った以上に時間がかかって、食事もろくに摂れずに夜を迎えただけ。疲れていただけ。そう言ってしまえばそれまでなんだけど、ふとした瞬間に「もう無理かもしれない」と思ってしまうのが人間なのかもしれない。疲れが心の奥の弱さを引きずり出してしまったのだろう。
誰にも頼れない「個人事務所」という孤独
個人で事務所を構えて十年以上になるが、いまだに「孤独」とはどう付き合っていいか分からない。事務員さんはいてくれるけど、経営者としては結局すべて自分で決めるしかない。休むことにも気を遣い、誰にも相談せず、ひとりで判断する。その重さが、じわじわと心をすり減らす。経営のこと、クレーム対応、将来の不安。誰にも打ち明けられず、夜道でふと立ち止まるしかない日がある。
相談役も、同僚も、愚痴の相手もいない
勤めていた頃は、上司がいたし、同僚と飲みに行くこともあった。でも独立してからは、愚痴をこぼす相手がいなくなった。相談しても「それは自己責任でしょ」と言われそうで、誰にも話せない。友達とも疎遠になり、恋人もいない。SNSに吐き出すほど若くもなくて、結局は自分の中に溜め込むしかない。そんなとき、夜道の静けさが自分を許してくれる唯一の場所に思える。
真っ暗な帰り道が、自分の心の中と重なる
街灯の少ない道を歩いていると、外の暗さと自分の心の中の暗さが一致するような気がする。明るい職場や人付き合いの中では隠してきた本音や弱音が、ふいに顔を出す。どうしてこんなに頑張っているのに、報われている気がしないんだろう。そんな疑問が、しんしんと降るように胸に降り積もる。「何のために司法書士をやっているんだろう」と自問してしまう。
一日中、誰かの「不安」と「怒り」を受け止めたあと
登記の相談、不動産の相続、成年後見…どれも人生の節目に関わる仕事であり、依頼人の心は常に不安定だ。怒りっぽい人、泣き出す人、無言でプレッシャーをかけてくる人。その感情のすべてを、黙って受け止めるのがこの仕事だ。でも、受け止めるばかりで、自分の感情を出す場がない。終業後の夜道で、ようやく「人間の顔」に戻る感覚がある。
それでも明日も「先生」と呼ばれる
泣いても泣かなくても、明日になればまた電話が鳴る。「先生」と呼ばれて、淡々と業務をこなすだけ。相手にとって私はただの司法書士で、心の中までは見えていない。そんな距離感の中で、感情を置き去りにしたまま仕事を続ける。けれどその「先生」と呼ばれることが、支えでもある。誰かが私に頼ってくれる限り、泣くことすら贅沢なのかもしれない。
独立して自由になったはずなのに
20代の頃、「独立すれば自由に働ける」と信じていた。上司に頭を下げることもなく、自分のやりたいようにできると。しかし現実は、自由とは責任の裏返しだった。時間も、報酬も、休日も、すべてが自己責任。独立した先には、自由よりも孤独と自己管理の重圧が待っていた。
「自分の好きなようにやれる」と思っていた頃の自分へ
昔の自分が今の私を見たら、きっと驚くだろう。やりたいことをやるどころか、やらなきゃいけないことに追われ続けている。仕事に誠実であろうとすればするほど、自由は遠のく。好きなようにやるには、結局「好きなように耐える覚悟」が必要だったんだと、ようやく気づいた。
事務員一人。全部自分で抱えるという現実
業務は多岐にわたり、ミスが許されない。補助者の方には本当に助けられているが、最終判断をするのは自分。書類の山、期限のプレッシャー、予期せぬトラブル。そのすべてに立ち向かうのは結局一人。逃げ場のない責任感は、自由の代償としてはあまりに重い。
自由って、案外寂しい
「自由に働けていいですね」と言われることもあるが、その裏には誰も気づかない寂しさがある。自分の判断で動ける分、失敗しても誰も責めないし、成功しても誰も褒めてくれない。相談できる人もいない。「好きなようにやれていいな」と言われるたび、心のどこかで「そんなにいいもんでもないよ」とつぶやいている。
やめる勇気より、続ける意地だけが残った
ここまで来てしまったから、もう引き返せないという気持ちがある。やめることもできたかもしれない。でも、「やめたら全部が無駄になる」と思ってしまう自分がいる。だから続けている。誰のためでもない。自分の中の意地と、それを支える弱さのせめぎ合いで、毎日なんとか立っている。
涙をこらえて歩く夜の理由
誰にも見られない夜道で、こらえた涙には理由がある。それは弱さじゃなくて、がんばってきた証なのだと思う。泣きたいという感情が湧くのは、まだ心が壊れていないから。ちゃんと感じている証拠。司法書士という仕事を、ちゃんと人間としてやっている証なのかもしれない。
仕事も人間関係も、正解が見えないまま
この仕事には教科書どおりの正解がない。依頼人の感情や事情によって対応は毎回変わる。人付き合いも、相手によって求められる距離感が異なる。何がベストなのか、いつも手探りで、不安の中で決断している。そんな不安定な土台の上で、平静を装っている自分に、時々限界を感じる。
失敗できない仕事の重圧と、自分の感情の処理
登記にミスがあれば取り返しがつかない。家族間のトラブルに巻き込まれれば、感情の渦に飲まれる。それでも冷静に、正確に仕事を進めなければならない。その裏で、自分の感情をどう処理するかという課題がある。怒りや焦り、不安や悲しみ。そのどれもを「なかったこと」にして働き続けるのは、正直しんどい。
「司法書士って向いてないのかも」とふと思う夜
こんなに苦しいのに、それでも毎日仕事をしている。でもふと、「自分には向いてないのかも」と思う瞬間がある。他人の問題を背負って、自分のことは後回し。報われないと感じる日が続けば、そんな考えが浮かぶのも当然だろう。それでも、依頼人の笑顔や感謝の一言が、また少しだけ前に進む力をくれる。
それでも明日も仕事はある
夜道で泣きたくなっても、朝は必ず来る。そしてまた、日常が始まる。変わらない業務、変わらない不安、変わらない責任。その中で、自分の心だけは少しずつ変えていくしかない。「もう無理だ」と思った夜も、乗り越えてきた自分がいる。その積み重ねが、きっと意味のあるものになる。
今日の自分を許せなくても、業務は回す
完璧じゃなくても、落ち込んでいても、仕事は回さなければいけない。それがこの職業の現実だ。うまくいかなかった日、自分を責めたくなる日。それでも帳尻を合わせ、責任を果たす。その繰り返しの中で、「自分を許す技術」も少しずつ覚えてきた気がする。
ちいさな「ありがとう」に救われる瞬間
「本当に助かりました」――依頼人のその一言が、何よりの報酬だ。複雑な事情を抱えた案件を無事終えたとき、そんな感謝の言葉に涙がにじむこともある。誰にも言えない苦労をわかってもらえたような気がして、心が少し報われる瞬間だ。
泣けなかった夜が、報われる日もある
涙をこらえた夜、歩き続けた自分に「よくやってるよ」と声をかけてやりたい。泣けなかった分だけ、自分の中に蓄積されたものがある。ある日それが、誰かの支えになったり、誰かの共感を生むかもしれない。そのとき初めて、泣けなかった夜に意味が生まれるのかもしれない。