笑い合う誰かが、そばにいない夜

笑い合う誰かが、そばにいない夜

笑うタイミングが、だんだんわからなくなってきた

司法書士として日々の業務に追われる中で、ふと気づくと笑うことが減っている。かつては誰かと冗談を言い合い、つい吹き出すような時間もあったはずなのに、今では自分の声でさえ耳障りに感じるほど静かな夜を過ごしている。笑うって、自然に出るものだと思っていた。でも、それが義務になっているような気がして、心の中にぽっかりと空洞ができているのがわかる。

仕事中は笑ってるフリでなんとかなる

依頼者と接する時、愛想笑いはある意味で仕事の一部だ。相談者が不安そうな顔をしていれば、こちらも和ませようとするし、妙にテンション高い人が来れば合わせる。それで場が和むなら、それでいい。でもそれって、本当の「笑い」じゃない。自分の中にあるものを、出す余裕も、出す場所も、正直どこにもない。

電話口の「ははは」に感情なんてない

たとえば電話で「いやー、それは大変でしたね、ははは」と返すことがある。でも心の中では、書類の締切や登記の間違いが気になっていて、笑ってる場合じゃない。受話器越しの声に合わせて自動的に出る音、それが「笑い」になってしまっている。自分でも、演技が板についてきたと思うと、少しだけ虚しい。

依頼者の前では笑顔、それがプロ…なんだろうけど

プロとして、依頼者には安心してもらいたい。そのために多少の無理はするし、顔は笑ってても心の中はどしゃ降りなんてこともある。だけど誰もその裏側までは見ないし、見せてはいけないとも思ってる。だから、笑うことが「業務」になってしまった時点で、僕の中の何かはすり減っていたんだと思う。

帰ってからの静寂が刺さる

日中、誰かと話していても、所詮は業務の延長。帰宅して部屋に入ると、急に音のない世界に包まれる。この静寂が、たまらなく重たい。テレビをつけても、誰かの笑い声が遠すぎて、まるで違う国の言葉のように聞こえることがある。笑いって、音よりも体温で感じるものなんだと気づかされる。

テレビもラジオも、もう騒がしいだけ

昔は帰宅するとテレビのバラエティ番組をつけていた。ひとり暮らしの寂しさを紛らわすには、ちょうどいい「雑音」だった。でも最近はその笑い声すらうるさくて、消してしまうことが増えた。笑いが耳に入っても、自分の中に響かない。逆に「自分には関係ない」と感じてしまって、余計に孤独感が増す。

笑い声を聞くと、羨ましくなる夜

窓の外から、誰かが笑ってる声が聞こえることがある。近所の家族の団らんか、若者たちの集まりか。自分とは無縁の世界の音なのに、妙に胸に刺さる。ああ、ああいうの、いいなって思う。別に派手じゃなくていい。ただ、疲れて帰ったときに、しょうもない話で一緒に笑ってくれる人がいたら、それだけで救われるのに。

ひとりで抱えるものが多すぎる

司法書士の仕事は、外から見れば静かで整然とした事務仕事に見えるかもしれない。でも実際は、期限、責任、法律、感情、そのすべてを同時に抱えて動いている。誰かと分担できるわけでもなく、何かあれば「先生の責任」ですべてが降ってくる。自分で決めた道だけど、ひとりでやっていくって、想像以上に重い。

「先生」って呼ばれるけど、心はそんなに立派じゃない

「先生」と呼ばれるたび、正直なところ、少しだけ後ろめたさを感じる。自分はそんなに立派じゃないし、完璧な人間でもない。けれど、そう呼ばれる以上、それに応えなければいけない。だから無理をする。だから感情を押し殺す。誰かに頼れないのは、見せちゃいけないと思っているから。

ミスできない責任と、見えないプレッシャー

不動産登記一つにしても、書類の一字一句、日付、印鑑、すべてが正確でなければならない。ミスすればクライアントの信頼を失うどころか、損害賠償にもなりかねない。だから常に緊張しているし、ミスしないよう神経を張り詰めている。プレッシャーは目に見えないけれど、確実に心と体を削っていく。

「全部自分でやる」の限界

事務員さんはいても、最終的な責任はすべて自分に返ってくる。だから難しい案件や判断が必要なときには、結局一人でやるしかない。最初はそれでもやりがいがあった。でも、年齢とともに気力や集中力の持続時間が短くなってきて、最近では「そろそろ限界かも」と思うことも増えてきた。

事務員さんがいるだけで、まだマシだと思ってる

ありがたいことに、うちには長く手伝ってくれている事務員さんがいる。それだけでも本当に救われている。でも、話し相手とはちょっと違う。雑談をするにも気を使うし、立場もある。仲は悪くない。でも、疲れたときにふっと気を抜いて笑えるような関係ではない。

感謝してる、でも話し相手じゃない

事務員さんには本当に感謝している。正確に仕事をこなしてくれて、変な話、僕よりも細かいところをよく見てくれていることもある。でもやっぱり、僕が孤独を感じている夜に、一緒に飲みに行って「いやー疲れましたね」って笑い合うような関係ではない。仕事上のパートナーであって、心のよりどころではない。

雑談って、こんなにありがたかったんだ

思えば、司法書士になる前はバイト先や同期の仲間と、よくどうでもいい話をして笑っていた。あの無意味な時間こそが、自分のストレスを解消してくれていたのかもしれない。最近では、笑えるような話題すら思いつかないし、話せる相手もいない。雑談って、贅沢だったんだと気づく。

何気ない一言に救われる日もある

そんな中でも、事務員さんの「先生、疲れてます?」という一言に救われたことがある。何気ない言葉なんだけど、「あ、見てくれてるんだな」と思ったら、それだけで気持ちが軽くなった。誰かと笑うには、まず「見てもらう」ことが必要なんだと思った。

人と笑うのに、努力がいるようになった

誰かと笑うって、以前はもっと自然にできた気がする。でも今は、そこに行くまでのエネルギーがいる。誘いのLINEにすぐ返信できない、会う約束をしてもその日になると億劫になる。それでも、会えばきっと楽しいとわかってるのに、自分を動かす力が湧いてこない。

誘われても、気力がついてこない

最近、大学時代の友人から飲みの誘いがあった。でも、「今ちょっと忙しくてさ」と返信してしまった。本当は行きたかった。たわいのない話で笑いたかった。でも、行くための準備、気持ちの切り替え、帰ってからの翌日への影響…そんなことを考えて、踏み出せなかった。

「また今度ね」は、もう何度目だろう

「また今度ね」って、便利な言葉だ。でも、これを何度も繰り返していると、その「今度」が永遠に来ないことにも気づく。誘ってくれる相手だって、いつか諦めてしまう。だからと言って無理に会えば、疲れてしまうのも事実で。社会人って、本当に難しい。

笑えるような出来事が、最近なかった気がする

日々の業務、書類との格闘、トラブル対応、クレーム。何かに追われる毎日で、「あ、これ笑えるな」と思える出来事がめっきり減った。ドラマみたいな面白ハプニングもなければ、誰かが突っ込んでくれるような会話もない。ただ、黙々とこなす作業の連続。笑いって、やっぱり誰かと一緒にいないと生まれないのかもしれない。

昔はもっと冗談言えたはずなのに

学生の頃は、くだらない冗談ばかり言っていた。「そんなボケ、どこで覚えてきたん?」なんて言われるのが快感だった。でも今では、笑いの引き出しを開けようとしてもホコリだらけで、中身はカラッポ。笑う余裕がないのは、笑わせる余裕もなくしている証拠かもしれない。

ひとり言が増えてきたと気づいた瞬間

「よし、終わった…」「これでいけるかな…」そんな声が、最近やけに多くなった。誰かに話しかけてるわけでもないのに、声が出る。それに気づいたとき、「あ、自分って今、結構キテるな」と思った。会話じゃなく、確認のための声しか出ない生活。これじゃ笑いが消えるのも当たり前だ。

それでも、自分を救ってくれたのは

そんな毎日の中で、ふとしたことで心が和らぐ瞬間がある。直接的な「笑い」ではないかもしれない。でも、気持ちが少しほぐれることで、自分の中にまた少しだけ余白が戻ってくる。誰かの言葉や、過去の記憶。そういう小さなものに、僕は何度も救われてきた。

過去の誰かの言葉だったり

「無理せんでええよ」って言われたことがある。数年前、知り合いの司法書士に言われた言葉だ。当時は笑って流したけど、今になってその意味がわかる。「無理してると笑えなくなるよ」ってことだったのかもしれない。言葉って、時間が経ってから効いてくることがある。

お客さんの「ありがとう」だったり

今日も疲れた、帰りたい、と思っていたときに、お客さんから「本当に助かりました」と言われた。それだけの言葉なのに、涙が出そうになった。笑う余裕はなかったけど、心の中で「よかったな」と思った。人の言葉って、こんなにも重い。こんなにも温かい。

ほんの一瞬、心が軽くなる瞬間がある

コンビニで買ったプリンが思いのほか美味しかった。そんな些細なことで、「あ、まだ大丈夫かも」と思えた日がある。笑いじゃないけど、ちょっと顔がほころんだ。そういうのを、これからも見逃さずに拾っていきたいと思っている。

笑えた日の自分を思い出すだけで少し違う

昔の写真を見ていたら、自分が思い切り笑っている写真があった。「こんな顔できたんやな」って思って、少し切なくなったけど、どこかで安心もした。あの頃の自分がいたなら、またそうなれるかもしれない。誰かと笑い合える日を、信じて待ってみても、いいかもしれない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。