気丈にふるまう依頼者と、心が折れかけていた自分
あの日のことは今でもよく覚えている。遺産整理のために来所された中年の女性。表情は穏やかで、淡々と話されていたけれど、時折見せる目の奥の寂しさに気づかないふりはできなかった。夫を亡くされ、これから一人で手続きを進めなければならない不安を抱えていたのだろう。でも、その日はむしろ、そんな彼女よりも、私のほうが感情を押し込めるのに精一杯だった。連日の仕事とプレッシャーで心がすり減っていた私は、書類を説明しながら、「このまま泣いてしまったらどうしよう」と内心焦っていたのだ。
依頼者の涙を見て、自分の限界を思い知る
説明がひと段落したとき、彼女が静かに「ありがとうございます」と呟き、涙を拭った。その瞬間、こちらの胸がぎゅっと締めつけられた。プロとして、淡々と業務を進めなければならない。わかっている。でも、あの言葉にこもった「安心」と「悲しみ」の両方が、自分の中で一気に噴き出してきて、限界だと思った。もともと感情移入しやすい性格なのに、この仕事ではそれが弱点になる場面も多い。とはいえ、人の人生に深く関わる仕事だからこそ、冷たくなりきれないジレンマもある。
プロとしての顔を保てなかった日
終始、丁寧に対応しようとは努めた。でも内心はずっとぐらついていた。最後に彼女が深く頭を下げて帰られたあと、私は机にうつ伏せたまま動けなかった。「これじゃだめだ」と自分を責めながらも、感情をコントロールする術を持ち合わせていなかった。結局、その日の午後はまともに仕事ができず、事務員にも迷惑をかけた。あのときの自分は、プロ失格だったと思う。けれども同時に、「人間らしさ」を持ち続けていた証なのかもしれないとも思った。
感情の切り替えができない自分を責める
「プロなのに泣きそうになるなんて情けない」と何度も自分に言い聞かせたが、感情をスイッチのように切り替えられるほど器用ではない。自分の未熟さが浮き彫りになったようで、その日の帰り道はただただ悔しかった。せめて、依頼者にはそんなこちらの内面を悟られなかったことが救いだった。誰かの人生の一場面に寄り添う重みを、改めて感じた日でもあった。
他人の悲しみを受け止める余裕がない現実
この仕事に就いて十数年、さまざまな感情と向き合ってきた。だが最近は、明らかに余裕がなくなってきている。書類の山、期限に追われる日々、そして増えていく責任。そんな中で人の悲しみに寄り添う余裕が、自分の中からどんどん削り取られている気がする。昔はもっと、人の話を丁寧に聞けていたはずなのに。
毎日ぎりぎりの精神状態で
朝、事務所に着いた時点で、もう心が重たい。今日中にやらなければいけないことが目の前に積まれていて、それをこなすだけで精一杯。そんな状態で、「依頼者に寄り添う」なんてきれいごとに思えてしまうときもある。業務として割り切れれば楽なのに、気づけば感情が引っ張られて、疲労感だけが残る。事務員にもつい、苛立ちが出てしまうことがある。
疲れが共感力を奪っていく感覚
共感したいのに、できない。気持ちはあるのに、頭が働かない。そんな自分に気づいた瞬間、情けなさと恐怖が押し寄せてくる。「もう司法書士を続けるべきじゃないのかもしれない」とさえ思った日もあった。だけど、やめたところで次が見つかるわけでもない。せめて、誰かに話を聞いてもらえたら少しは違うのに、そう思いながら、また一人で夜を迎えている。
司法書士として「冷静さ」を求められることの苦しさ
司法書士という仕事には、感情よりも正確さが求められる。相続登記、遺言執行、成年後見…。どれも人の人生に直結する手続きだからこそ、間違いは許されない。でも、書類の向こうには必ず感情がある。その狭間で揺れる心が、仕事のたびに少しずつすり減っていくのを感じる。
人の人生の節目に立ち会う重み
登記一つとっても、その背景には家族の事情や思い出が詰まっている。遺言書の一文に込められた想いをくみ取って手続きを進めるとき、何度も迷うことがある。「本当にこれでよかったのか」「もっとできることがあったのではないか」。けれども、そこに答えはない。ただ淡々と処理するしかないのだ。
登記の裏にあるドラマと感情
ある日、亡くなった祖母の家を売却する手続きを進める依頼者がいた。「祖母の家を手放すなんて本当はしたくない」と言っていたその方の声が、今でも耳に残っている。けれども現実は非情で、相続税の支払いのために売却は避けられない。こちらはその書類を淡々と処理するしかないが、胸の奥には「自分は何をしているんだろう」という虚しさが残る。
機械のような仕事処理に罪悪感
効率よく進めようとすると、心を切り離す必要がある。でも、それは自分の一部を切り捨てるような感覚でもある。「人間じゃなくなっていくような気がする」と思う瞬間が、最近増えてきた。プロとして、間違いなく、冷静に、確実に――それが求められるのはわかっている。でも、感情を失った自分が、司法書士として正しいのか。答えは出ないまま、今日も業務に追われている。
「冷たい人」と誤解されることも
感情を出さずに業務を進めると、時に「冷たい」「無機質」と思われる。そんなふうに見られてしまうと、内心は傷つく。自分の中では葛藤や思いやりが渦巻いていても、それが外には伝わらないからだ。プロの顔をしているだけで、本当は普通の、疲れたおじさんなのに。
本当は心が折れそうなだけ
「事務的で結構ですね」と嫌味を言われたこともある。けれども、感情を出せば出したで「仕事なんだから」と責められることもある。一体どうすればいいのか分からなくなる。実はただ、心が折れそうなだけで、少し優しい言葉が欲しいだけなのに。
弱音を吐ける場がない職業
司法書士という仕事は、意外と孤独だ。専門的な相談相手も少なく、ミスの責任はすべて自分に返ってくる。だからこそ、常に緊張しながら仕事をしている。でも、弱音を吐ける場所がない。家に帰っても一人、スマホを見て寝るだけの日々。誰かとつながる時間がほしいと願いながら、また朝を迎えている。
一人事務所の限界と、感情のやり場のなさ
地方の一人事務所という立場は、自由もあるが責任もすべて背負う。その重さは、時として心を押しつぶす。依頼者と向き合う時間よりも、書類と向き合う時間のほうが長くなり、気づけば感情の居場所を見失っている。泣くことすらできないまま、机に向かっている自分に、ふと虚しさがこみ上げてくる。
愚痴を言える同僚もいない
会社勤めなら、昼休みに誰かと他愛ない話をして気が紛れるかもしれない。でも一人事務所では、愚痴をこぼす相手すらいない。事務員はいても、責任の重さや感情の機微を共有できるほどの関係性ではないことも多い。だから、こうして独り言のようにブログを書くことしかできない。
相談相手はパソコンの画面だけ
ふとした瞬間に、「自分はなんのためにこの仕事をしているんだろう」と思うことがある。その答えを誰かに聞いてほしくて、パソコンに向かって文字を打つ。でも、返ってくるのはカーソルの点滅だけ。何かを伝えたい、誰かと共感したい――そんな想いが、行き場をなくして宙をさまよっている。
孤独が増幅する共感の疲労
誰かのために心を使えば使うほど、自分の中が空っぽになる気がする。その空白を埋める方法を、まだ見つけられていない。笑顔で「助かりました」と言われても、嬉しいと感じる余裕がなくなっていることに気づいて愕然とする。今日もまた、ひとり感情をしまい込んで、業務に戻る。そんな日々が続いている。