“自分らしく”の呪いに疲れた夜に

“自分らしく”の呪いに疲れた夜に

「自分らしく」の正体がわからない

「自分らしく生きよう」とか「もっと自分を大切に」なんて言葉を耳にするたびに、どこかモヤモヤする。自分らしさって、そもそも何なんだろう。45歳になって、地方で司法書士として日々淡々と書類を作り、登記をこなし、依頼主と無難に接する毎日の中で、「これが自分らしさか?」とふと立ち止まる。忙しさにかまけて、そんな問いを脇に置いてきたけれど、夜ひとり、カップラーメンをすすりながら静かに考えると、答えが出ない。

世間が押しつけてくる“らしさ”という幻想

世の中が言う「自分らしさ」は、結局のところ“周りにウケる自分”のことなんじゃないか。明るくて、前向きで、夢に向かって努力してる人が「自分らしくて素敵」とか言われるけど、毎日しんどくて、愚痴ばっかり言ってる人間には、その“らしさ”は与えられない。かといって、「文句を言ってる自分が自分らしいです」と堂々と言うほど開き直れない自分もいる。なんか中途半端で、自分を肯定する言葉すら見つからない。

他人の“自分らしさ”に振り回される日々

あの人は登記に強い、この人は人脈で仕事を広げてる、あの若い司法書士はSNSで情報発信して依頼が絶えない——そういう他人の“自分らしさ”を目にするたび、自分はダメだなと感じる。比べなくていいと頭ではわかってる。でも、事務員との会話すら減っている静かな事務所にひとりでいると、どうしても他人が輝いて見える。自分にしかできないことって何なのか、わからないまま時間だけが過ぎていく。

SNSと“自分らしさ”競争の終わらない地獄

たまに見てしまう司法書士同業者のSNS。フォロワー1万人とか、noteで仕事術を発信しているとか、YouTubeで解説動画を投稿しているとか。自分はそんなことしてないし、したいとも思わないけど、見てるとやっぱり劣等感が出てくる。あの人たちは“自分らしさ”を武器にしてるのに、自分には何もない。静かに仕事をしていることも“らしさ”だと思いたいけど、外に出せないものに価値があるのか、わからなくなる。

比べる必要なんてないと思えたら楽なのに

本当にそう思う。比べないようにしようって毎月のように自分に言い聞かせてるけど、比較は癖になっている。たとえば、隣町の司法書士が事務所を法人化していたり、若手がどんどん業務領域を広げている話を聞くと、「自分は何してんだろうな」と暗くなる。独身で、子どももいない。家に帰っても話し相手はいない。比べないようにと思えば思うほど、比べてしまう。この苦しさ、誰かと分かち合えるなら、少しは楽になるんだろうか。

司法書士という仕事と“自分らしさ”

司法書士って、あまり“自分”を出す職業じゃない。正確で、真面目で、冷静でいることが求められる。とくに地方では、奇抜さよりも“普通さ”のほうが信頼に繋がる。そんな中で“自分らしく”なんて言われても、戸惑ってしまう。むしろ、感情を抑えることこそがこの仕事で生き残る術なのかもしれない。

「堅実で冷静」が求められる職業像のなかで

司法書士は感情を出しすぎてもいけない。相手の不安を煽らないように、一定の距離を保ちながら淡々と仕事をこなす。でも、それが続くと人間味を忘れてしまいそうになる。「自分らしく」と言うよりも、「自分を消して職業に徹する」ほうが正解のような日々。それでも、相談者がふと「話を聞いてもらえてよかった」と言ってくれた時、自分のままでいてよかったのかなと、ほんの少し思えることがある。

書類に自分を込められるわけでもなく

登記申請書や契約書。どれも形式が決まっていて、そこに自分らしさを出す余地なんてない。間違えれば即トラブル。だから慎重になり、保守的になる。誰にも気づかれない部分で神経をすり減らして、夜にぐったりする。こういうのも“仕事”なんだけど、「自分らしさ」っていう言葉と並べると、どこか無力に感じてしまう。この仕事に誇りはある。でも、華やかさはない。そこに“自分”があるのか、正直わからない。

お客様に“人間味”を見せるべきか迷う

昔、依頼者の前でちょっと感情的になってしまったことがある。親族間の不動産トラブルで、どうにも納得がいかない話だった。でもそれ以降、そのお客様は他の司法書士に乗り換えてしまった。あの時、冷静でいられたら——と今でも思う。でも、自分の心を押し殺してまで“正しい”態度を取り続けるのも苦しい。どこまで人間らしさを見せるべきか、その加減は今でもわからないままだ。

自分を消してでも仕事を回すという現実

「今日はつらいです」とか「調子が悪いです」とか、本当は言いたいけど言えない。たった一人の事務所、ひとりが崩れるとすべてが止まる。だから自分を消す。毎朝無理やりスーツを着て、「今日も普通でいこう」と自分を言い聞かせる。それって“自分らしい”んだろうか。いや、たぶん違う。でも、それが現実。じゃあこの現実の中でどうやって“らしさ”を見つければいいのか、そんな問いがいつも頭の片隅にある。

“らしく”なんて探さなくていいのかもしれない

最近思う。「自分らしくあろう」とすること自体がプレッシャーなんじゃないかと。肩に力が入りすぎて、むしろ不自然になっているような。気づいたら、無理をしないで過ごせた日が一番“自分らしかった”と思えたりする。誰かに見せる“自分らしさ”じゃなく、自分の内側に静かにある“らしさ”でいいのかもしれない。

ただ淡々と生きることも、自分らしさになる

派手さはないけど、毎日遅刻せずに出勤して、ミスなく書類を仕上げて、誰かの困りごとを一つ解決する。それを何年も続ける。これもある意味“自分らしさ”なのかもしれない。SNSに載せるような出来事はないけど、夜になって「今日もちゃんとやったな」と思えたら、それでいい。そんな地味な積み重ねを、もう少しだけ信じてみようと思う。

他人の期待に応えることも悪くはない

“自分らしく”の対義語のように聞こえるけど、誰かの期待に応えることって、案外やりがいにもなる。たとえば、昔の依頼者がまた連絡をくれたとき。期待されてることに、ちゃんと応えられた実感があるとき。そういう瞬間に、「ああ、自分ってこういうタイプなんだな」と思えたりする。無理をしてでも応えたその行為も、結果的に“らしさ”になることだってある。

誰かの期待が、思わぬ生きがいになることも

たまにくる「先生がいてくれて助かった」という一言。それだけで、1週間くらい頑張れることがある。期待はプレッシャーにもなるけど、同時にエネルギー源にもなる。自分らしさを探す旅よりも、誰かに必要とされる現実の中で、自分を感じられる瞬間がある。それならそれで、いいんじゃないかと思う。

無理せず生きてる人ほど“自分らしく”見える不思議

「自分らしく」って言葉を振りかざす人よりも、淡々と日々をこなしている人のほうが、よほど“自分らしい”ように見える。不思議だけど、そう思う。目立たなくても、自分のペースで、自分なりのルールで日々を過ごしている人。そんな姿に、ちょっとだけ憧れる。そして自分も、そうなれたらいいなと思う。焦らず、見せつけず、静かに、自分の場所で。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。