朝の静けさが胸に染みる
朝一番、事務所に入ると、機械音だけが響く。キーボードのカチャカチャ、プリンターのウィーンという音。そのどれもが「人間の声」ではないという事実が、なんとも言えない寂しさを運んでくる。静寂は集中力を高めると誰かが言っていたけれど、誰かがいる静けさと、誰もいない静けさはまったく別物だと思う。後者は、心が冷える。
パソコンの起動音だけが聞こえる朝
出勤して一番最初にすることは、パソコンの電源を入れること。立ち上がるまでの数十秒間、椅子に腰かけて天井を見上げる。その間、聞こえてくるのは機械のファンの回る音だけだ。誰かの「おはようございます」もなければ、雑談もない。ただ、エアコンの風と無音の空間。事務所にいるのに、どこか取り残されたような気分になるのだ。
事務員さんが来る10時までの“孤独”という時間
僕の事務所には事務員が一人いるが、出勤時間は午前10時。それまでの2時間、僕は完全に一人だ。朝のルーティンをこなすけれど、人の気配がないせいで、作業の手が妙に重たい。ひとりごとでもつぶやこうかと思っても、それすら虚しくなる。たった一言の「おはよう」が、どれだけ温かいかを思い知らされる時間でもある。
「お疲れさま」と言える相手がほしい
夕方、ふと時計を見ると「ああ、今日も終わったな」と思う。だけど、その思いを誰かに伝える相手がいない。事務員さんが帰った後は、事務所に再び静寂が戻る。仕事の達成感も、その場で誰かと共有できなければ、なんとなく半分に薄まってしまう気がする。「お疲れさま」って言いたいし、言われたい。それだけで、ずいぶん心が違うのに。
今日もまた、自分に向かってつぶやくだけ
「お疲れさま」とつぶやいた声が、壁に跳ね返ってきて自分に返ってくる。なんとも虚しい。それでも言わずにはいられないのは、きっと自分を少しでも労ってやりたいからだろう。けれど、本当は他人の言葉がほしい。他人の存在がほしい。人の温かさというのは、理屈じゃない。心が自然に求めてしまうものなのだ。
話しかける相手がいないと、声って小さくなる
以前はもう少し声が大きかった気がする。でも今は、話すことが少なくなって、どんどん声も小さくなっていく。電話の対応中、自分の声が頼りなさそうに聞こえるときがある。話すというのは、誰かと繋がるための手段だ。だからこそ、相手がいない日々が続けば続くほど、声は弱くなるし、気力まで持っていかれる。
疲れた顔を見せられる相手がいない現実
疲れても、ため息をついても、それを受け止めてくれる人がいない。事務員さんに気を使って「大丈夫ですよ」って顔を作ることもある。仕事上では仕方ないけど、本音をさらけ出せる相手が事務所にいないというのは、思った以上に堪える。自分の弱さを見せる場所がない。それが、こんなにしんどいなんて。
忙しさはあるのに、なぜか虚しい
ありがたいことに、仕事はそれなりにある。登記に相続、裁判書類の作成、休む暇はない。でも、だからこそなのか、「人間らしさ」を感じる暇がどんどん削られていく。毎日せっせと働いて、それなりに成果は出てるのに、なぜこんなに虚しさを感じるのか。たぶん、それは誰とも「喜び」を共有していないからだ。
目の前の書類の山に、人の温度がない
机の上に積み重なったファイル。日々やってくる郵便物。どれもが「仕事」ではあるけれど、「人間」の匂いがしない。ただの紙と手続きの山。依頼人の人生に関わる大事なことをしているはずなのに、自分はどこか機械になったような気がする。笑顔や声、温もりがないと、仕事はただの作業になってしまうのだ。
「ありがとう」が欲しくて仕事してるわけじゃないけど…
報酬ももらえるし、感謝の言葉を求めて働いているわけではない。でも、やっぱり「ありがとう」と言われると嬉しいし、「助かりました」の一言で一日が変わる。人間は、やっぱり人のために働いて、人に支えられている。それが薄まっていく感覚が、この孤独感の正体かもしれない。
誰かと一緒に「やりきった」って言いたい夜もある
繁忙期の最後の日や、難しい案件が終わった夜。「やったな!」と誰かと肩を叩き合えるような、そんな関係がちょっと羨ましい。誰とも乾杯できない、ただの終業。達成感は自分の中だけで処理して、次の日にはまた通常運転。人のいる事務所だったら、もっと違う景色が見えていたのだろうか。
それでも今日も、一人でシャッターを開ける
どんなに人恋しくても、どれだけ寒々しい朝でも、仕事は待ってくれない。自分しかいないこの事務所のシャッターを、今日もまた上げる。それが「選んだ道」だと言われれば、返す言葉もない。でもやっぱり、「誰か」と働きたい。せめて「一人じゃない」と思える瞬間が、もう少し増えてくれたら――そう願わずにはいられない。