誰にも名前を呼ばれなかった日――「先生」である前に「自分」でいたかった
朝から晩まで「先生」で呼ばれる日々
朝、事務所のドアを開けた瞬間から「先生、おはようございます」と声がかかる。郵便物を届けにきた配達員も「○○司法書士先生、書留です」と呼ぶし、電話では「先生はいらっしゃいますか?」。一日が終わるまで、僕の名前は一度も使われなかった。誰も僕の名前を呼ばないことに、ふと気づいたのは、ある雨の日だった。ふとんに潜りながら、自分が誰だったか忘れそうな感覚に襲われた。
名前が記号になっていく感覚
「先生」という呼び方には敬意が込められているのだろうけど、それが常態化すると、まるで自分が「役割」そのものでしかないように感じる。僕という人間ではなく、司法書士という機能として存在しているだけ――そんな錯覚に陥る。名刺の肩書きがそのまま人格になってしまったような、違和感。誰かに名前を呼ばれるたび、自分が存在していた証拠を得たような気がしていたのに、その機会がこの数年で極端に減った。
「先生」には敬意がある…のか?
正直、「先生」と呼ばれても、ありがたいと感じることは少なくなった。形式的な呼称になってしまって、相手の目にも僕自身が映っていないような気がする。ただの習慣であり、挨拶と同じ「お約束」なのだ。だからこそ、たまに名前で呼ばれるとドキリとする。それは相手が、こちらを“人”として見ているというサインだから。
それでも返事はしてしまう自分
そんなふうに文句を言いつつも、僕は「先生」と呼ばれたら返事をする。「はい、先生です」なんて、自分で言ってしまった日には、何かがこっぱずかしくて夜中に寝返りを打つはめになる。役割を演じることに慣れすぎて、自分の中の“本名”を引っ張り出すのが億劫になっているのかもしれない。いや、もしかすると怖いのかもしれない。本名で呼ばれたときに、自分の内側を見透かされるような気がして。
事務員にも名前で呼ばれた記憶がない
唯一の事務員とはもう何年も一緒に働いている。けれど、彼女も僕を「先生」と呼ぶ。たぶん名前を忘れているわけじゃない。でも、職場の空気というか、そういうルールが自然とできてしまった。今さら「○○さん」と呼ばれても、逆にびっくりしてしまうかもしれない。でも、それは少し寂しい。
効率と業務に飲み込まれる関係性
業務が多忙になると、どうしても関係性も業務的になる。彼女との会話は「これ、登記情報出てます」「はい、署名お願いします」「これ、返信しておきますね」といった内容がほとんど。雑談も減り、昼休みもお互いにスマホを見ながら過ごすようになった。名前を呼び合うような関係は、いつの間にか過去のものになっていた。
距離感の取り方が下手な自覚
そもそも、僕自身が壁を作っているという自覚もある。事務員と仲良くしすぎると変に見られるんじゃないか、とか。距離感を保とうとするあまり、結果的に名前すら呼ばれないような関係になってしまった。誰も悪くないけど、誰も近づいてこない。それが日常だ。
親しみと馴れ馴れしさの境界線
司法書士という仕事は、ある意味で“公的な立場”に近い。だからこそ、親しみを持ってもらうことと、なれなれしくされることの違いを気にしすぎていた。実は、自分の方が相手に名前を呼ぶことを躊躇していたのかもしれない。相手を役割でしか見ていなかったのは、僕の方だったのではないかと思う瞬間もある。
そもそも自分が壁を作っていたかもしれない
思えば「距離を置こう」と思ったのは、誰かに嫌われたくないという保身でもあった。プライベートな部分を知られることで崩れるイメージが怖かった。名前で呼ばれると、自分が“ただの人間”として扱われてしまう気がして、それが妙に怖かった。強がっていたわけでも、偉ぶっていたわけでもなく、ただの小心者だったんだと思う。
実家でも「兄ちゃん」、法務局では「先生」
法務局に行けば「○○先生、こちらの訂正印を…」と事務的に言われ、実家に帰れば「兄ちゃん、これ食べる?」と呼ばれる。結局、どこに行っても本名は出てこない。年に一度くらい、旧友に会ったときにだけ「おい、○○!」と呼ばれて、やっと名前の自分が浮上する。
名前が消えていく恐怖
人は名前を呼ばれることで、自分という輪郭を確認しているのかもしれない。呼ばれない日が続くと、少しずつ存在が薄れていくような気がする。まるで自分が“誰かの代わり”に成り果てたような気持ちになる。社会的には何かの役割を果たしていても、個としては空洞のまま。
人とのつながりが希薄になった理由
司法書士という職業の特性かもしれないが、つながりはほとんどが「業務上必要な関係」に限定される。感情のやりとりが少ない。どこかで「効率」や「信頼性」を重んじるあまり、ぬくもりのある言葉を交わすことが減ってしまった。だからこそ、名前で呼ばれることが、いまはとても特別に感じられる。
日々の会話が形式的になりすぎていた
「いつもお世話になっております」「以上、よろしくお願いいたします」。メールも会話もテンプレートのような文言ばかりになった。人とのやりとりが、まるで定型文のよう。そこに名前を差し込む余地すらなかったのかもしれない。だけど、人と人との間にある“ぬくもり”は、そういう些細なところに宿るのだと思う。
自分のことを話さなくなったのはいつからか
「今日は暑いですね」とか「昨日、テレビ見ました?」とか、そういう何気ない会話を避けるようになったのは、たぶん忙しさを理由にした孤立だった。自分から話さなければ、相手も名前で呼ぼうとしない。当たり前のことなのに、それに気づくまでにずいぶん時間がかかってしまった。
「○○さん」と呼ばれることのあたたかさ
一度だけ、相続の手続きで来た高齢の女性から「○○さん、ありがとうございました」と言われたことがあった。とても自然で、やさしい声だった。なんだか胸がじんとした。その瞬間、自分が“人”として扱われたような気がした。ああ、こんなにも名前には力があるのかと実感した。
一度だけ、依頼者に名前を呼ばれた日
その方は、僕のことを何度も「○○さん」と呼んだ。敬意よりも親しみがあって、無理のない距離感で。あれほど自然に名前を口にされたのは久しぶりだった。たったそれだけのことなのに、救われたような気がした。それ以来、名乗るときにはなるべくフルネームを使うようになった。
名前には、人と人との距離を縮める力がある
名前は単なる識別子じゃない。呼ばれることで、自分という存在が誰かの中に“いる”ことを確認できる。たとえ仕事上の関係でも、「○○さん」と呼び合えることで、少しだけ心が動く。だからこそ、僕も誰かの名前を、もっと丁寧に呼ぶようにしようと思う。
“名前で呼ばれる”というささやかな願い
贅沢なことは望んでいない。ただ、誰かに名前を呼ばれるだけで、こんなにも満たされるとは思ってもいなかった。司法書士としての自分も大切だけれど、それ以上に「○○という人間」として見てもらえる瞬間を、これからも大事にしていきたい。
孤独の中でも自分を見つけるために
誰にも名前を呼ばれなかった日々の中で、自分自身を見失いそうになった。でも、それでも立ち止まらずにやってこられたのは、たまに交わされる小さな言葉に救われてきたからだ。名前を呼ばれること。それは、きっと生きていく上での最低限のぬくもりだ。
「名前を呼ぶ」ことの意味を、今なら理解できる
これからは、相手の名前をしっかり覚えよう。できるだけ、ちゃんと呼ぶようにしよう。きっとその一言が、誰かにとって“今日を乗り切る理由”になるかもしれないのだから。僕自身がそうだったように。