今日は、事務員としか喋っていない──司法書士の“声のない日常”に寄り添う

今日は、事務員としか喋っていない──司法書士の“声のない日常”に寄り添う

静かすぎる一日が、ふと寂しくなる

事務所に一日こもって仕事をしていたら、気づけば誰とも会話らしい会話をしていない日がある。いや、正確には「事務員としか喋っていない日」だ。朝、「おはようございます」と交わし、昼には「ご飯行ってきます」、夕方には「お先に失礼します」。それだけだ。別に仲が悪いわけでもなく、むしろ信頼している。けれど、ただそれだけのやりとりで、一日が終わるのは、正直、寂しい。

会話らしい会話がなかった日

朝、いつものように8時半には事務所に到着。事務員がすでにいて、「おはようございます」と返してくれた。それから、私はPCに向かって書類作成。合間に電話は鳴るけれど、基本は留守電対応。昼前にふと、「あれ、今日まだ誰ともまともに会話してないな」と気づく。だけど、忙しいからそのまままたキーボードに向かって、気づけばもう夕方。「お疲れさまでした」と声をかけるも、それがその日の“会話のすべて”になる。

「おはようございます」から始まる無言の業務

事務所では、必要以上の雑談は控えるようにしている。効率よく業務を進めるためでもあるし、お互いに集中できるように配慮しているつもりだ。けれど、「おはようございます」の一言のあとは、カタカタと鳴るキーボードの音だけが響いている。無音ではないが、心に届く音は何もない。誰かと心を交わすような瞬間が、一つもないまま朝が終わるのは、なんとも言えない孤独感がある。

昼休みも音がしないまま過ぎていく

昼休みになっても、事務員は自分のデスクで静かに弁当を広げ、私もコンビニのおにぎりを口に運びながらスマホを見ているだけ。会話がないことに不満があるわけじゃない。だが、ふとしたときに、「昔は昼に誰かと冗談の一つも交わして笑ってたな」と思い出す。誰かと他愛もない話をする時間の大切さを、失ってからようやく実感している。

話し相手が事務員だけという現実

一人で事務所を構えて、雇っているのは事務員一人だけ。お客さんがいない日は、完全に“二人だけの世界”になる。でも、その事務員との会話も、ほぼ業務連絡だけ。それで仕事は成り立つ。でも、心のどこかで「もう少し、何か言葉を交わせたら」と思う日もある。寂しいなんて言えないけれど、感じていないわけではない。

雑談のようで雑談じゃない言葉のやりとり

「あの件、どうなりましたか?」「はい、郵送しました」そんな言葉のやりとりはある。けれど、それは雑談ではなく、業務の確認にすぎない。たまに、「今日寒いですね」と言ってみるが、返ってくるのは「ですね」の一言。もちろん悪いわけじゃない。でも、“会話”をしたい自分と、“業務だけで充分”な雰囲気の間にある見えない壁を感じてしまう。

気を遣わせていないか不安になる

私が何か喋ろうとするたびに、相手が少し困ったような表情をする。たぶん気のせいだ。でも、それが気になってしまうあたり、こちらも気を遣っている証拠だろう。過去にうまくいかなかった職場での人間関係がフラッシュバックして、つい口をつぐんでしまう。話しかけることすら、勇気がいるのだ。

一人で仕事が完結する職業の孤独

司法書士という仕事は、ひとりでも完結することが多い。もちろん依頼人や他士業との連携はあるが、基本的には“自分が全部責任を持つ”ことが求められる。それは自由でありながら、同時に孤独を生む。誰かに相談したくても、「そんなことも自分で決められないのか」と思われるのが怖くて、結局何も言えない。

相談も確認も、全部自分で決める

たとえば、登記の判断に迷ったとき。自分の中では「こうするのが妥当かな」と思っても、やっぱり誰かと話して整理したい。でも、周りに聞ける人がいない。だから結局は、自分の責任で進めるしかない。その繰り返しが、いつの間にか“孤立”を生む。相談相手がいるというだけで、どれだけ心が軽くなることか。そう痛感する。

責任の所在がすべて自分にある日々

小さな案件でも、大きな案件でも、結局責任を問われるのは私一人。事務員は補助はしてくれるが、判断はできない。だから、いつも一人で正解を探している。その過程を誰かと共有することもなく、ただ黙々と結論を出す。気づけば、話す必要すら感じなくなっている自分がいる。

「誰かに話したい」と思ったときにはもう遅い

ふと、「この件、誰かに聞いてほしいな」と思っても、もう夜の9時を過ぎている。連絡するのも気が引けるし、そもそも誰に連絡すればいいのかもわからない。だから、結局は黙って一人で答えを出すしかない。誰かに話せる関係を、少しずつでも作っていくべきだったと、今さら後悔している。

会話がない日がもたらす影響

何も喋らずに一日が終わると、思った以上に心が荒む。人と話すことは、ただの情報交換ではなく、感情の発散でもある。それがなくなると、感情が内側にたまっていく。喜びも、イライラも、全部自分の中に残る。それが続くと、精神的にもじわじわと摩耗していくのがわかる。

言葉がぎこちなくなっていく感覚

久しぶりにお客さんと面談したとき、言葉がうまく出てこなかった。頭ではわかっているのに、口がついてこない。雑談のタイミングも読めなくなっていて、空気を読めてないような発言をしてしまった気がして落ち込んだ。毎日人と喋っていれば自然と出てくる言葉も、喋らないとすぐに錆びついてしまうのだ。

説明がうまくできず、焦る自分がいる

とくに困ったのは、専門的な内容を一般の依頼者に説明する場面。以前ならすらすら説明できていたのに、言い回しを迷ってしまったり、途中で言葉を詰まらせてしまう。焦れば焦るほどうまくいかず、「あれ、こんなに下手だったっけ」と自己嫌悪に陥る。喋る機会が減ることは、想像以上に実務にも影響する。

笑い方を忘れたような気持ちになる

冗談を言われても、うまく笑えない。いや、心では笑っているのだけど、それが表に出てこない感じ。事務所に笑い声が響いたのはいつだろう。そんなことを考えたとき、無性に悲しくなる。笑いは誰かと共有するものだ。一人では、なかなか生まれない。

それでも、誰かと話したいと思う

どんなに仕事が好きでも、どんなに一人が気楽でも、人はやっぱり誰かと話すことでバランスを保っている。会話のない一日を過ごしたからこそ、次に誰かと話したときの温かさに救われる。だから私は、少しずつでも意識して“声を出す機会”を増やそうとしている。

孤独を癒やすのは“意味のない雑談”かもしれない

真面目な話や業務連絡ではなく、「最近どうですか?」「天気いいですね」そんな雑談が、心にはいちばん効く薬かもしれない。意味があるとか、ないとかじゃなくて、“話した”という事実が自分を軽くしてくれる。忙しさに流されているとつい忘れがちだけれど、大切なのは、ほんの数分の会話だったりする。

「最近どうですか?」という何気ない一言が救い

ある日、事務員がぽつりと「先生、最近疲れてません?」と聞いてきた。その一言で、なんだか胸の奥がほぐれた気がした。「ああ、自分も誰かに気にかけてもらってるんだ」と思えた。その日一日は、いつもより少しだけ優しく過ごせた気がする。たった一言でも、救われることがある。

話しかけることも、自分を整えるひとつの手段

誰かと話すことは、自分を確認することでもある。「今、自分はどう感じているのか」「何を抱えているのか」それを言葉にすることで、少しずつ整理されていく。だから今日も、業務連絡だけじゃなくて、ちょっとした会話をする勇気を持とうと思う。それはきっと、自分を大事にすることにつながるから。

事務員との関係を大切にするという選択

毎日一緒に働いているのだから、少しでも居心地のいい空気を作りたい。そのためには、自分から声をかけることも大事だ。無理に話す必要はないけれど、時々でいい。「いつもありがとう」「助かってるよ」そんな一言を重ねていくことで、お互いの気持ちはきっと変わる。

業務を超えた“信頼”が生まれるとき

ある日、事務員が「最近、ちょっとしんどいです」と打ち明けてくれた。それは、私が少しずつでも話しかけるようになった結果だと思っている。業務だけでなく、人としてのやりとりができる関係は、やっぱり心をあたためてくれる。それはお互いにとって、大きな財産だ。

「今日もありがとうございました」の重み

一日が終わるとき、事務員が「お疲れさまでした」と言ってくれる。その声があるだけで、「今日も何とか頑張ったな」と思える。声に出すこと、耳で受け取ること、そのやりとりがどれほど貴重か、会話のない日を経験して初めて気づく。今日も、明日も、その一言に救われながら働いている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。