感情の処理が苦手な司法書士という矛盾
「司法書士は冷静沈着であるべき」と言われることがあります。確かに業務では感情を挟まず、淡々と処理することが求められます。登記のミスは許されないし、相続人間の感情的な対立にも巻き込まれすぎてはいけません。でも、そういう姿勢を長年続けてきた結果、自分の感情をどこに置いていいのかわからなくなってしまったんです。感情の処理が壊滅的に下手で、ちょっとしたことで落ち込む。そんな自分に嫌気がさすこともしょっちゅうあります。
冷静な判断力が求められる職業なのに
司法書士として働いていると、「冷静であること」が最も重要な能力のように感じます。お客様が感情的になっていても、こちらは冷静に、法的に、正確に。まるで感情のない機械のようにふるまうことが求められます。でも、ふとした瞬間に、それが自分の中の「感情の居場所を消してきた」結果だったと気づきます。法的な冷静さの裏で、自分自身の感情に蓋をしすぎてしまった。だからこそ、ほんの些細なことで心が暴れてしまうんだと思います。
感情を表に出すのは甘えだと思っていた
学生時代の野球部では、感情を見せるのは「甘い」「弱い」とされていました。ミスをしても黙って走る、怒りを覚えても飲み込む、涙なんて論外。そういう姿勢が社会に出ても染みついていて、今でも「感情を出したら負け」みたいな感覚が抜けません。でも、そうやって無理に抑えてきた感情は、結局どこかで爆発する。誰かにではなく、自分自身に向かって。落ち込んで、責めて、寝られなくなる。そんな悪循環に陥っている自分がいます。
ふとした瞬間に感情が暴走する
「なんでそんなことで…」と思うようなことに、妙に心を持っていかれることがあります。業務中は何でもない顔をしているのに、帰り道に急に涙が出たり、夜布団の中で悶々と考えこんだり。誰にも見せられない、けれど自分の中では嵐のような感情。それが、ふとした瞬間に暴走してしまうのです。自分でも理由がわからず、それがまた苦しい。感情の扱いに慣れていないまま大人になってしまった、そんな気がします。
登記ミスで自分を責め続ける夜
昔、どうしても自分の中で許せないミスがありました。補正が必要な案件で、僕の確認漏れが原因でした。お客様には謝罪して再提出したものの、その夜はずっと自分を責めていました。「プロとしてあり得ない」「こんなんで司法書士を名乗っていいのか」そんな思考がグルグル回って、寝つけず、胃がキリキリ痛くなる。事務員からは「仕方ないですよ、ミスくらい」と言われましたが、僕にはその一言すら心に突き刺さるものでした。
事務員のひと言に必要以上に落ち込む
ある日、事務員が「先生ってたまに不機嫌ですよね」と言いました。もちろん悪意があったわけではなく、軽い冗談のつもりだったのでしょう。でも、その言葉を聞いた瞬間、ぐっと心が沈んでしまいました。「そんなふうに見えてたのか」「自分は人を嫌な気持ちにさせてるんだ」と。たった一言なのに、頭から離れず、翌日もその翌日もずっと気にしてしまったんです。感情の処理が下手だと、こういう些細なことが何倍にも膨らんでしまう。
なんでそんなに気にするんですか
その後、思い切って事務員に「昨日の言葉、ちょっと堪えたよ」と伝えてみたら、「え、なんでそんなに気にするんですか?」と笑われてしまいました。それがまたつらかった。自分の中でぐるぐるしていた感情が、他人からすれば取るに足らないことだったという現実。それを知ってますます情けなくなり、「やっぱり自分は感情の扱いが下手なんだな」と自己否定のスパイラルに入っていく。こういうとき、心の逃げ場がほしくなります。
言われた一言が一週間頭から離れない
感情を処理する術がないと、ひと言が一週間も心に残り続けます。その間、何度も頭の中でリプレイされ、勝手に解釈が歪んでいく。「きっと嫌われてるんだろう」「迷惑がられてるに違いない」と、証拠もないのにネガティブな妄想が膨らんでいきます。感情の癖はなかなか変えられません。でもせめて、「そういう自分でもいいや」と思えるようになりたい。そう思いながら、今日もまた心のなかで反省会をしています。
誰にも相談できない感情のもつれ
感情のことを誰かに話すのは、簡単なようでとても難しい。士業という立場柄、「弱さを見せる=信頼を失う」と思ってしまいがちです。友人も少なく、そもそも相談できる相手がいない。そんな中で感情を抱え続けていると、どんどん内側に溜まっていく。でも、心の中のぐちゃぐちゃを抱えたまま仕事を続けるのも、相当しんどいです。本当は誰かに「それわかるよ」って言ってもらいたいだけなのに、それすら言えないのが現実です。
仲間がいない地方の事務所の孤独
僕の事務所は地方にあって、同業者との交流もほとんどありません。研修で年に数回会う程度で、気軽に雑談できる仲間はいない。事務員ともある程度の距離が必要だし、日中はずっと一人。誰かと感情を共有する機会がない生活が当たり前になってしまいました。でも、人は感情を共有することでバランスを保っているんだと思います。それがないと、どんどん独りよがりになって、自分の感情すら持て余すようになるのです。
愚痴れる相手が欲しくてSNSをさまよう
夜中にTwitter(今はX?)を開いて、「司法書士 愚痴」「仕事 辛い」などと検索してしまう自分がいます。誰かが同じようなことで悩んでいないか、共感できる投稿がないかを探す。でも、たいていはキラキラした報告や宣伝ばかりで、余計に落ち込むんです。「みんな上手くいってるのに、自分だけ感情の扱いが下手」そんな風に思ってしまう。SNSで孤独が紛れるどころか、深まる瞬間も多々あります。
感情を抑えすぎた代償
感情に向き合うことを避け続けた結果、気づけば心も身体もガタが来ていました。感情なんて無視していれば自然と消えると思っていた。でも、現実はその逆で、押し込めれば押し込めるほど、どこかに歪みが出てくるんです。身体に現れる痛みや不眠、理由もなく感じるイライラや空虚感。それは感情の放置が引き起こしたツケでした。
身体に出たサインを無視していた
眠れない夜が増えました。胃が痛む日もありました。でも「こんなことで休んでいられるか」と無理をして仕事を続けていました。今思えば、それは身体が発していたサインだったのかもしれません。感情を無視することで、身体が代わりに訴えていた。だけど僕はそれすら「気のせい」と片付けていたんです。身体は嘘をつけないというけれど、僕はずっと自分に嘘をつき続けていたのだと思います。
仕事のミスより怖い心の空洞
一番怖いのは、大きな失敗ではなく、心が何も感じなくなることです。嬉しくもない、悔しくもない、ただ淡々と目の前の仕事をこなすだけ。そうなったとき、自分が何のために働いているのかわからなくなります。感情があるからこそ、仕事にも意味が出てくる。そう気づいたとき、ようやく「感情の扱いを上手くなりたい」と思うようになりました。
少しだけ感情と向き合う練習を始めた
変わるためにできることは何か。僕が始めたのは、ほんの小さな「感情を書き出す」ことでした。誰にも見せない、自分だけのノートに、感情をそのままぶつけてみる。恥ずかしくても、情けなくても、とにかく出してみる。そうすると少しだけ、自分が何を感じているのか整理されていくのです。
元野球部らしくノートに書き出してみる
練習日誌のように、毎日感情を書いてみることにしました。「今日は怒り」「今日は不安」そんなシンプルな言葉でもいい。昔の監督の言葉で「見える化すれば改善できる」というのがありましたが、感情もそれと同じかもしれません。見えないままにしておくと、対処もできない。まずは見えるようにするところから、ゆっくり始めています。
感情もフォームも固めすぎると崩れる
野球でフォームを意識しすぎると、むしろ動きがぎこちなくなってしまうことがあります。感情もそれと似ていて、押さえつけようとすればするほど、自然さが失われてしまう。柔らかさや余白がないと、人としての魅力も薄れていくのではないか。司法書士という仕事の中でも、もっと感情を扱う柔軟さを持ちたいと、今は思っています。
司法書士だからこそ不器用でも共感を
感情を扱うのが下手な自分でも、同じように悩んでいる人にとっては何かヒントになるかもしれない。弱さを認めることが、誰かの力になることだってある。士業の世界でも、もっと感情に正直であってもいいんじゃないか。そういうメッセージを、この文章を通じて誰かに届けられたら嬉しいです。
自分もそうですと言ってもらえる救い
この文章を読んで「自分もそうです」と思ってもらえたら、それだけで報われた気がします。僕も誰かの共感が欲しくて書いている部分があります。感情の処理が下手な司法書士がいてもいい。そう思える人が増えたら、この業界もちょっとは優しくなれる気がしています。
感情が下手でも誰かの役に立てること
感情の扱いは下手でも、書類の処理は丁寧にできる。笑顔は苦手でも、誠実さなら負けない。そうやって、不器用なりに誰かの役に立てているなら、それでいいのではないかと思います。司法書士という仕事の中にも、人間らしい不完全さがあっていい。そう信じて、今日もまた、机に向かっています。