ただいまの一言を聞かなくなって久しい
「ただいま」と言って玄関を開ける癖が、今でも抜けない。返事が返ってくるわけじゃないのに、つい口に出してしまうのは、昔の習慣というやつか。それとも、どこかで「誰かがいてくれたら」と思っているからなのか。静かな部屋に帰るたび、自分が“独り”であることを改めて突きつけられるような気分になる。家は休む場所のはずなのに、気を張っていた外よりも、気を抜いたはずの内の方が重苦しく感じるのは不思議なものだ。
玄関の鍵を閉める音が一日の終わりを告げる
「カチャッ」というあの音が、妙に響く。事務所でどれだけ忙しくしていた日でも、帰宅した瞬間に、その日が終わったことを思い知らされる。たった一人で過ごす夜は、静かすぎて時間の進み方まで鈍くなる。以前はそんな時間をありがたいと思っていた時期もあった。けれど今は、静けさが心を冷やすような感覚になる。司法書士という仕事柄、人と関わる時間は多いはずなのに、終業後の孤独は妙に際立つのだ。
テレビがついていれば寂しさはましになるのか
部屋に入ってまずやることといえば、テレビの電源を入れること。見たい番組があるわけでもない。ただ誰かの声が欲しいだけだ。テレビの向こうの人たちは、こちらに話しかけてはくれないけれど、それでも無音よりはずっとましだ。誰かの笑い声が部屋に流れると、自分が少しだけこの世界とつながっているような気がする。でも、そんなことを考えてる自分に気づいたとき、急に情けなくなるのもまた現実だ。
無音の部屋で響く自分のため息
ため息って、こんなにも響くものだったかと驚く夜がある。疲れが抜けない日、予定が狂った日、報酬のことでモヤモヤしていた日。何かと愚痴りたくなる夜には、誰かに聞いてほしいのに、その“誰か”がいない。かといって電話をかけるほどの用事でもないし、そもそも電話をかける相手が思い浮かばない。そんなとき、自分が今どれだけ閉じた場所にいるのかを実感する。そして、それをまた誰にも言えないのが一番しんどい。
誰かと話したいけど 誰とも話したくない夜
矛盾しているのはわかってる。「話したいけど、話したくない」。そんな夜がある。仕事で疲れて、頭の中もグルグルしてる。誰かに聞いてもらえたら楽になるんだろうけど、うまく言葉にならない。結局、何もせずに寝る準備だけして、スマホを触っているうちに日付が変わっていく。誰かとつながっていたい気持ちと、もう何もしたくない気持ちがぶつかり合って、心の中だけが騒がしい。
LINEを開いては閉じる癖
既読がつかないLINE、送られてこない通知。それでもついアプリを開いてしまう。誰かが気にしてくれていないかな、そんな期待を込めて。でも、現実は変わらない。画面の中にいる“友だち”の数はそこそこなのに、話しかけられる相手がいないことの虚しさ。既読無視されてるわけでもないのに、自分だけが立ち止まっているような気持ちになる。既読がつかないことよりも、話題が思いつかない自分にへこむ。
一人で暮らすということと孤独は別物
一人暮らし=孤独、ではない。そう思っていたけれど、現実は違った。一人暮らしでも充実してる人はいるし、家族がいても孤独を感じる人だっている。だから、「一人だから寂しい」では片付けられない。ただ、誰とも言葉を交わさないまま一日が終わるのは、やっぱり堪える。仕事では“先生”と呼ばれるけど、家に帰ればただの中年男。誰の役にも立たない時間を、何のために過ごしているのか、わからなくなる。
電話の相手がいないという現実
たまに「今すぐ誰かに話したい」と思う夜がある。でも、電話帳を開いても、かけられる相手がいない。仕事の関係ばかりで、プライベートで気軽に話せる人なんてほとんどいない。昔の友人に連絡するのも、どこか気が引ける。家族とは用件以外で話さない。何かを話したいのに、話す先がないというのは、思っていた以上にきつい。スマホの向こうに誰かがいる時代なのに、こんなにも孤独を感じるとは。
元野球部だった俺は声を出すことが好きだった
昔の話をするのは年寄り臭いけど、ふと部活のことを思い出す。元野球部。声を出すのが当たり前だったし、誰かが声を返してくれるのが当たり前だった。サインプレー、ランナーコール、励ましの掛け声。そこには、何の見返りもいらないやり取りがあった。それが心地よかったのかもしれない。今は、話すことに意味を求めてしまう。意味がない言葉を交わせる相手が、どれほど貴重だったか、今さら気づいた。
かつてのベンチの声援が恋しくなる
打席に向かう仲間を全力で応援していたあの頃、声を張るのが楽しかった。結果がどうあれ、声を出してるだけで、誰かとつながっている実感があった。あの熱気、あの一体感。今の仕事では、そういう空気はなかなか味わえない。成功しても、失敗しても、拍手もブーイングもない世界。自己完結が求められる職業だとわかっていても、ふと寂しさがこみ上げることがある。
ナイスプレーと言われた日の自分
たまに夢に出てくる。三遊間のゴロをさばいた瞬間、チームメイトが「ナイス!」と声をかけてくれたあの場面。誰かに認められるって、こんなにも力になるんだなと実感した日だった。今の仕事では、誰かから褒められることは少ない。感謝はされても、声に出して「よくやった」なんて言われることはない。だからこそ、あの言葉が今も胸に残っているのかもしれない。
司法書士になってから拍手をもらったことはない
登記が無事に完了したとき、お客さんがホッとした顔をしてくれる。それが最大の「成功の証」なんだろう。でも拍手なんてない。表彰もない。誰かが見ているわけでもない。だから、自分で自分を評価しないといけない。でも、それが一番難しい。成果を言葉にしてくれる存在がいたら、どれだけ救われるだろう。独りの夜に、そんなことばかり考えてしまう。
それでも事務所を続けている理由
それでも、朝になればまた出勤する。疲れていても、孤独を感じていても、事務所の扉を開ける。それはたぶん、自分にとっての「役割」がそこにあるからだ。誰かの力になれる仕事だと、信じているからだ。孤独であることと、誰かの役に立つことは、同時に成り立つのかもしれない。少なくとも、何もしないよりはずっといい。そう思って、今日も机に向かっている。
事務員さんの「お疲れさま」が唯一の救い
事務所に戻ると、事務員さんが「お疲れさまでした」と言ってくれる。たったそれだけの一言が、どれだけありがたいか、本人は気づいていないだろう。日々の業務は決して楽じゃない。でも、その声を聞くと、少し報われた気がする。誰かが見ていてくれる、それだけで心が軽くなる。人って、たった一言で救われる生き物なんだと、しみじみ思う。
人と関わるということの重さと温かさ
人間関係って、めんどくさいことも多い。でも、誰かとちゃんと向き合うことをやめてしまったら、たぶん自分はどんどんダメになる。仕事の場で、関わる人がいるからこそ、自分の存在を保てている。独りで過ごす夜もあるけれど、それでも日中に誰かと関われることが、どれほど自分を支えてくれているか。人はやっぱり、人によって救われるのだと思う。