恋愛を語るなんて、おこがましいですかね

恋愛を語るなんて、おこがましいですかね

恋愛の話になると、なんとなく居心地が悪い

恋愛の話題って、なぜあんなに空気を支配するんでしょうね。テレビでも、飲み会でも、雑談でも、ふとしたときに恋愛の話になると、私はすっと引いてしまうんです。何かを隠してるわけでもないし、嫌いなわけでもないのに、話に入れない。いや、入っていいのかさえわからない。若い頃は「経験不足かな」と思っていたけれど、45歳になった今、そういう話題に触れないままここまで来たことが逆に居心地の悪さになってしまっているような気がします。黙ってると「悟ってる人」みたいに思われたりして、それもまた居心地が悪い。実は、話したい気持ちも、ちょっとあるんですけどね。

話すことがない、という壁

会話って、共通の体験があってこそ成り立つことが多いですよね。たとえば「彼女と喧嘩した話」とか「婚活アプリでの珍事件」みたいな話になると、私は完全に蚊帳の外。何も言えずに相槌だけ打っていると、「この人、恋愛に興味ないのかな」と思われてしまう。でも本当は、ただ話すネタがないだけなんです。自分の話をするにも、過去に付き合った人の数を指で数えられるような私には、場を盛り上げられるようなエピソードもありません。「話すことがない」という壁は、思った以上に高く、そして分厚いんです。

経験が少ないことへの後ろめたさ

誰にも責められているわけではないのに、「恋愛経験が少ないこと」をどこかで恥ずかしいと感じてしまいます。大学時代、友人たちは毎週のように誰かとデートしていて、私はその様子を少し羨ましく眺めていました。自分が劣っているとは思わないようにしていましたが、心の奥底では「こんなんじゃ恋愛のこと語れないよな」と自分を卑下していた気がします。今でも、恋愛話になるとつい自分の「空白の時間」が頭をよぎって、口を閉じてしまうのです。

聞き役専門のまま、大人になってしまった

私は昔から、話すよりも聞く方が得意でした。人の恋バナを聞いて笑ったり、時には慰めたり。でも、気づいたら「聞き役」のまま45歳を迎えてしまいました。聞いてばかりいたら、自分のことを語る機会を完全に失ってしまった。聞き役って、一見優しそうに見えるけど、実はすごく孤独なんですよね。誰にも相談できず、誰にも自分のことを語れず。自分の人生なのに、自分の気持ちだけが置き去りにされていくような、そんな感覚があります。

「語る資格」って誰が決めるんでしょうね

よく、「そんなこと語る資格ないよ」みたいな言い回しを耳にします。でも、それっていったい誰が決めることなんでしょうか?たくさん恋愛してきた人だけが語れるのなら、私は一生語れない。でも、そういう人たちも失恋したり、悩んだりしているわけで、決して“成功者”じゃない。むしろ不器用な人間ほど、恋愛について語りたいこと、考えていることが多いんじゃないかと思うんです。ただ、それを口に出す「場」も「タイミング」も、なかなか見つからない。それが現実です。

恋愛経験=価値、という空気

今の社会は、恋愛や結婚を経験していることに“意味”を与えすぎている気がします。恋人がいるかどうか、結婚しているかどうか、それが人間としての成熟度のように語られることがある。でも、それって本当に正しい評価軸なんでしょうか?恋愛をしていない人間は“欠けている”存在なんでしょうか?私はそうは思いません。ただ、世間の空気に押されて、自分の存在価値まで疑ってしまうときがあるのです。

黙っていると、勝手に「悟り系」にされる

恋愛の話を振られても、笑って流したり、黙っていたりすると、たいてい「悟ってる人」扱いされます。「そういうの、もう興味ないんでしょ?」って。でも違うんですよ。興味がないんじゃなくて、話せることがないだけ。語るための“材料”が少ないだけなんです。それを“達観”や“冷めてる”と受け取られると、なんとも言えないもやもやが残ります。話したくても話せない、その気持ちをどう処理すればいいのか、今でもわかりません。

司法書士として、人の「縁」を扱ってきたけれど

私は司法書士として、日々たくさんの人の「人生の節目」に関わっています。結婚、離婚、相続、贈与——それらはすべて人と人とのつながり、つまり「縁」を扱う仕事です。形式的な書類作成が主ですが、その背後には必ず人間関係があります。笑顔の裏にある葛藤や、別れ際の複雑な感情も、ちらっと見えることがある。でも私自身は、その「縁」にあまり縁がない。そんな自分が、縁を仕事にしているという事実が、ちょっとした皮肉のように思えることもあります。

登記簿には書けない、人の感情

登記簿に記されるのは「誰が」「いつ」「何をしたか」だけです。でもそこに「なぜ」「どうして」といった人の感情は一切入りません。離婚届を提出する夫婦も、贈与をする親も、笑っていても心の中では泣いているかもしれない。そういう姿を見るたびに、「自分はその感情をどれだけ理解できるのか?」と自問します。恋愛もまた、感情の塊です。感情を抜きに語ることなどできない。だからこそ、経験の乏しい私には、語ることにためらいがあるのかもしれません。

結婚、離婚、相続——全部「恋愛」の続き

司法書士の仕事は、冷静に見れば「書類の処理」です。でも、その書類が生まれる背景には、必ず“誰かと誰か”のストーリーがあります。結婚登記にはじまって、財産分与、離婚協議書、そして最後は相続。その一つひとつに、人の感情が詰まっている。恋愛は、一過性のものではなく、人生の節目に連続して存在するものだと感じます。そう考えると、私の仕事は恋愛の“影”をずっと見続けているのかもしれません。

感情に関与できないのが専門職の矛盾

私はよく「先生」と呼ばれますが、決して偉いわけでも、感情に強いわけでもありません。むしろ、感情を排して、正確な手続きを進めるのが私たち司法書士の役割です。けれど、その一方で、相談者の感情を無視していいわけでもない。その矛盾に、日々揺れています。恋愛に不器用な自分が、他人の“恋の結末”を事務的に処理している現実。そのギャップが、時に自分の心を重くさせるのです。

それでも誰かを大切にしたいという気持ち

恋愛を語る資格がないと思っている私ですが、それでも「誰かを大事に思う気持ち」はずっと抱えてきました。恋愛感情ではないかもしれない。でも、誰かにそっと寄り添いたいとか、ひとりじゃないと感じさせたいとか。そんなささやかな気持ちもまた、“人を想う”という意味では恋愛と地続きなのかもしれません。語れない恋愛にも、語るべき感情がある。そんなふうに思っています。

恋愛じゃないけど、大事な人はいる

恋人ではないけれど、大切な存在。私にとっては、長年一緒に働いてくれている事務員さんがそうです。彼女とは適度な距離感で、でも信頼できる関係を築いています。恋愛ではない。でも、この人がいなければ仕事は回らないし、日々の会話にも救われている。恋愛じゃなくても、人を大切に思う気持ちはある。その気持ちに、名前が必要なんでしょうか。そう考えると、“恋愛”という言葉の枠にこだわること自体が、少し窮屈に思えてきます。

事務員さんとの距離感が難しい理由

年齢も違うし、立場もあるし、何より仕事の関係。だからこそ、踏み込めない距離というのがあります。私の中で「もしもう少し若かったら」とか「もっと話せる性格だったら」と考える瞬間もあります。でも、だからといって踏み込んでいいものでもない。尊重すべき距離感ってあるんですよね。彼女が気持ちよく働けることが一番。そのために、自分の気持ちは飲み込む。そういう不器用な優しさも、世の中にはあると思うんです。

感情を表に出すのが苦手な人間の葛藤

私は昔から、感情を表に出すのが得意ではありません。うれしいときも、寂しいときも、顔に出すのが苦手で、いつも「落ち着いてますね」と言われます。でも、心の中は常にざわざわしています。恋愛に対しても、「語らないから興味がない」わけじゃない。ただ、語れないだけ。そういう不器用な人間だって、誰かを思う気持ちはある。だからこそ、語れない恋愛にも、意味を見出したいのです。

語れない恋愛にも、意味があると思いたい

世の中は語れるものだけを評価しがちです。でも、語れないことにも、語らないことで守ってきたものにも、意味はあると信じたい。恋愛を語る資格がないと思ってきたけれど、語れないからこそ見える景色もある。そんなふうに思えるようになったのは、きっと年を重ねたからでしょう。不器用で、寂しがり屋で、でも優しさを忘れたくない。そんな司法書士がいたって、いいじゃないですか。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓