頑張らなくていいって誰かに言われたいだけだった

頑張らなくていいって誰かに言われたいだけだった

頑張って当然の空気に疲れてしまう

司法書士の仕事というのは、他人から見れば「責任ある仕事」かもしれない。でも実際の現場では、常にプレッシャーと緊張の連続だ。失敗は許されないし、期限は絶対。しかも、誰かが「無理してない?」と気づいてくれるわけでもない。自分が「頑張ってます」って態度を見せないと、回らない仕事が山積みになる。そうして、無意識に“頑張って当然”の空気に呑まれていく。だけど、本音はただひとこと。「頑張らなくていいよ」って言ってくれる人が、どこかにいてくれたらと思ってしまう。

誰もが頑張ってるけど その重さは違う

確かに、みんな頑張ってる。それは否定しない。ただ、その“重さ”には個人差がある。10kgの荷物を持っているように見えても、中身が水か鉛かで全然違う。僕の荷物は、たぶん鉛に近い。事務所を一人で切り盛りし、事務員の管理、相談者対応、登記申請、トラブル処理。家に帰っても気が抜けない。それを「他の人もやってるんだから」と自分に言い聞かせ続けるのは、自己否定に近い。だけど、誰にも言えない。弱音を吐いたら、負けだと思ってしまう。

元野球部だったからこその無理の癖

僕は高校時代、野球部だった。3年間、声が枯れるまで叫んで、吐くまで走った。監督の「死ぬ気でやれ」という言葉を、何の疑問もなく受け入れていた。たぶん、その頃に身についた“限界を越えてからが本番”という思い込みが、今の自分を苦しめている。体調が悪くても、頭がぼーっとしてても「まだいける」と思ってしまう。それが美徳だと錯覚していた。でも今思えば、あれはただの無理だった。あの癖が、40代の今になってじわじわ身体を壊しにきている。

声をかけられたくて無言で背中を見せていた

本音を言えば、ずっと誰かに気づいてほしかった。机に突っ伏しているときも、夜遅くまで事務所の電気をつけていたときも。たぶん、無言の「助けて」を背中で出していた。でも、誰にも気づかれなかった。それどころか「頑張ってますね」「頼りにしてます」と言われる。ああ、また自分で自分の首を絞めてしまったと思う。疲れてる自分を演じながら、さらに頑張るって矛盾してる。でも、そうでもしないと認められないと思っていた。

事務所経営は気を抜いたら崩れるという恐怖

開業して10年。事務所が少しずつ軌道に乗ってきたけれど、心のどこかでは常に「全部が一瞬で崩れるかもしれない」という恐怖がつきまとう。仕事を断ったら次は来ないかもしれない。クレーム一つで信用を失うかもしれない。そう思うと、休むことが怖くなる。だから土日でも携帯を離せない。趣味も減った。おかげで人生に「余白」がなくなってしまった。

事務員一人 雑談する時間すら気を遣う

うちの事務所には、事務員が一人いる。とても助かっているし、いなければ仕事は回らない。でも、彼女に気を遣わせないように、僕も常に気を張っている。業務中の会話も、雑談ひとつでも「職場の空気」を壊さないように考えてしまう。つまり、事務所でも気が休まることがない。お昼を一緒に食べる時でさえ、つい言葉を選んでしまう。家庭があればまた違ったのかもしれないが、僕には“素の自分”に戻れる場所がない。

休んだら負けと自分に言い聞かせてきた

風邪をひいた日も、腰が痛む日も、結局休まずに出勤してきた。カレンダー上では“休業日”でも、僕の頭の中はいつも稼働中だ。そうしないと、事務所が止まってしまう気がして怖かった。たった1日休むことすら、勇気が必要だった。昔の仲間が「今度キャンプ行こう」と誘ってくれても、断った。楽しそうだけど、不安が勝ってしまう。休んだ自分を許すには、まだ時間がかかりそうだ。

気づいたら頼れる人がいなくなっていた

振り返ると、誰にも弱音を吐かず、ずっと一人でやってきた。その結果、気づいたら“頼れる人”が誰もいなくなっていた。相談できる同期も、気軽に連絡できる先輩も、今はいない。SNSで流れてくる司法書士仲間の「繁忙報告」すら、遠い世界に感じる。自分だけが取り残されたような孤独感。頑張りすぎた代償は、静かで深い孤立だった。

優しさの言葉に飢えていた

正直な話をすれば、もう褒められたいとかじゃない。ただ、誰かに「頑張らなくてもいい」と言ってほしい。それだけで救われる気がしていた。認めてほしいんじゃなくて、許してほしい。「もう十分やってるよ」と言ってくれる存在がいれば、それだけで生き方が少し変わった気がする。

頑張らなくていいよって言われたいのに言えない

どうしても、自分から「つらい」と言えない。プライドかもしれない。甘えと思われたくない気持ちもある。でも本音は「言いたい」んだ。「頑張らなくてもいいよ」って言われたら、たぶん泣く。何歳になっても、自分を肯定してくれる言葉に飢えてる。でも、そういう言葉はどこか“特別”すぎて、なかなか届かない。だからこそ、余計に欲してしまう。

本当はもうずっと限界だった

限界って、ある日突然来るもんじゃない。じわじわ、静かに、少しずつ蝕まれていく。朝起きても、目が開かない。電話が鳴る音に、心臓が跳ねる。お客さんの笑顔がプレッシャーに変わる。そんな日が続いて、それでも「大丈夫です」と笑ううちに、本当に自分が壊れていく。限界は超えてから気づくんじゃなくて、超えてもなお進もうとしてしまう自分の性格が問題なんだ。

泣くわけにもいかない自分に呆れる

泣けたら、少しは楽なんだろうなと思う。でも、涙が出ない。感情が干からびている。なのに、夜になると妙に胸がざわつく。それをビールでごまかしながら、眠れない夜を過ごす。そんな自分に呆れながら、それでも翌朝にはスーツを着て、事務所の鍵を開ける。そうやって「司法書士としての自分」を維持してるけど、そろそろ限界かもしれない。

ほんの少し 頑張らない勇気が欲しかった

勇気って、何かを始めるときだけじゃない。何かをやめるときにも、必要なんだと思う。僕が本当に欲しかったのは、「頑張ることをやめる勇気」だった。もう少しゆるく生きたっていいじゃないかと、自分に言えるようになるまでには、まだ時間がかかりそうだけど。

誰かに甘えることも仕事のうちかもしれない

司法書士って、どうしても「自立」が求められる職業だ。でも、本当に必要なのは「孤立」じゃなくて「支え合い」だと思う。誰かに甘えること、それは決して悪いことじゃない。むしろ、甘えられる人間関係を築く努力のほうが、ずっと難しい。そう気づいてからは、少しだけ人との距離を意識するようになった。

しんどいって言える関係を築くということ

「しんどい」って言える人がいるかどうかで、人生の質は変わる。仕事仲間、友人、家族。誰でもいい。素直に弱音を吐ける相手がいるかどうかが、支えになる。僕は今、そういう相手をもう一度探している。独身だし、家族もいないけど、だからこそ“つながり”の重みを感じる。

優しさに支えられた経験を誰かに返したい

僕自身、昔ある先輩にかけられた「もうええよ、ようやった」という一言に救われた経験がある。だから、今度は自分がそういう言葉を誰かにかけられる人間になりたい。司法書士としてじゃなく、一人の人間として。誰かの頑張りすぎを、そっと止めてあげられる存在に。そうなれたら、少しは救われる気がする。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。