それほんとに司法書士が必要なのって聞かれた日

それほんとに司法書士が必要なのって聞かれた日

それほんとに司法書士が必要なのって聞かれた日

ある日、依頼者との何気ないやりとりの中で、ぽつりと投げかけられたひと言。「それ、ほんとに司法書士が必要なんですか?」。その瞬間、胸の奥がズシンと重くなった。もちろん相手に悪気はない。むしろ素朴な疑問なのだろう。でもこちらとしては、その問いかけ自体が自分の存在意義を試されているようで、地味にこたえる。地域の片隅で、目立たぬまま地道に登記や書類の整備を続ける毎日。その中で「いて当たり前」になっていることの虚しさを、この一言が突きつけてきた。

素直な一言にグサッとくる朝

その日は、朝から相談の予約が入っていた。法務局帰りのコンビニでコーヒーを買い、事務所に戻ったところに来訪。開口一番、「これ、ネットでできるって聞いたんですけど、司法書士に頼む必要あります?」。笑顔で返す余裕もなく、むしろフリーズしてしまった。たしかに一部の登記はネットでできる。けれど、必要書類の整合性や法的な判断、何より万一の責任を担うのは我々の役目だ。その説明を飲み込む前に「料金が高い」とか「書類だけなら自分で」とか、畳みかけられるようなこともある。信頼されていないわけじゃないけど、必要とされていない感が、ただただしんどい。

悪気はないのは分かってるけど

相談者にとっては、少しでも安く、簡単に済ませたいという気持ちは当然だ。ましてやネットで「司法書士 不要」なんて言葉が躍っていれば、そう思うのも無理はない。でも、こちらは日々積み上げてきた知識と経験があってこそ今がある。ちょっとした言葉の端々に、努力が軽視されているような空気を感じると、やるせなくなる。しかもそれを責めるわけにもいかない自分がいて、結局心の中で愚痴るだけ。ああ、性格の悪いおっさんになったもんだと自己嫌悪に陥る。

説明しても伝わらないもどかしさ

司法書士の業務って、説明が難しい。表面的には「書類を作って出すだけ」と思われがちだ。でも実際は、登記の整合性や法的リスクの回避、依頼者の利益保護まで考えながら動いている。とはいえ、それをその場で全部話すのも野暮だし、押しつけがましくなってしまう。結果、にこやかに短く説明して終わる。でもその裏では、たとえば相続登記一つでも、戸籍を何通も取り寄せて読み解き、関係者を調整し、間違えたら責任を取るというプレッシャーがある。「たったこれだけのこと」じゃないのに、伝わらないまま終わってしまう。そこに一番、無力感を覚える。

司法書士の仕事は見えにくい

建設現場で言えば、我々は「基礎工事担当」のような存在だ。建物ができたあとからは見えないけど、なければ崩れる。登記も同じで、完成した家や契約の裏側にある法的な支えを、ひっそりと整えている。だからこそ、失敗は許されないし、誰にも気づかれないまま終わることも多い。けれど、それを「いなくても回る」と言われると、たまらなく寂しくなる。

裏方に徹しているという誇り

正直、目立ちたいわけじゃない。昔からそうだった。野球部でも声出しや道具整理ばかりやってて、エースになるような目立ち方はしてこなかった。でも、その中で確実に役割を果たすことに喜びを感じてきた。司法書士の仕事も同じで、目立たないけど、誰かの暮らしや大切な資産を裏で支えている。そのことには、密かに誇りを持っている。ただ、誇りだけじゃ食っていけないし、誇りだけじゃ心は救われない日もある。

でもそれが誤解を生む原因でもある

誇り高く、静かに仕事をする。その姿勢が、かえって「簡単そう」「誰でもできそう」と思われる原因になる。怒りよりも、悲しさが先に来る。だったらもっと宣伝した方がいいのかもしれない。でも、性に合わない。SNSも苦手だし、広告費をかける体力もない。地方の片隅の一司法書士にできるのは、今日も淡々と一件ずつ、丁寧に仕上げていくことだけ。だからこそ、なおさら「本当に必要なんですか?」の一言が突き刺さる。

誰がやっても同じと思われる切なさ

事務所に電話してきた人が「〇〇って書けばいいんですよね?」と自分で書こうとする気持ちも分かる。でも、たとえば登記の内容を少しでも誤ると、登記官から補正通知がきたり、最悪やり直しになったりもする。しかも、本人申請で出したものは、自分で責任を取るしかない。それでも「どうせコピペでしょ」と言われると、もう何も言えなくなる。

実際は段取りと責任が命

たとえば相続登記でも、最初に誰が法定相続人なのか、誰が意思を持っているのか、争いはないか、それを見抜く力が求められる。間違えれば、後でトラブルになるし、登記できたとしても不備があれば責任を問われる。たかが一枚の登記簿の裏には、何十枚もの資料と、何十時間ものやり取りが詰まっている。そんな仕事を、誰がやっても同じとは言ってほしくない。

「ミスできない」の重圧の中で

昔は「責任感がある」って褒められるのがうれしかった。でも今は、その責任感が重荷になることもある。間違えてはいけない、という緊張感。しかもそれを、誰にも気づかれずにこなすのが当然という空気。そういうのが積み重なると、「なんのためにやってるんだろう」と自問自答したくなる。きっと、同じように感じてる司法書士の人もいると思う。

誰かに頼られる喜びはある

ここまでネガティブなことばかり書いたけど、やっぱり人に頼られると嬉しい。難しい登記の相談を受けて、「助かりました」と言われた瞬間は、今でも胸に来る。たまに手紙をくれる依頼者もいて、それを読んだ日は少しだけ報われた気持ちになる。

「やっぱり頼んでよかった」その一言のために

結局、自分が頑張れるのはその一言のためなのかもしれない。「頼んでよかった」「安心しました」——それが欲しくて、今日も重い戸を開けて事務所に入る。報酬明細よりも、その一言が心の支えになっているのが現実。だからこそ、たった一人でも、そう言ってくれる人がいる限り、もうちょっと踏ん張ってみようかと思える。

いつか自分も、自分を肯定できるように

今はまだ、自分の仕事に完全な自信を持てるわけじゃない。日々の不安や孤独は消えないし、モテるわけでもないし、正直しんどい。でも、誰かの暮らしの一部を、確かに支えていると信じている。それが、司法書士としての「存在理由」だとしたら、いつかその意味を自分でも誇れるようになりたい。そう願いながら、明日もまた、地味な一日が始まる。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。