目がしょぼしょぼしながら書く日報

目がしょぼしょぼしながら書く日報

目がしょぼしょぼしながら書く日報

司法書士という仕事柄、記録を残すというのは当たり前の業務の一部だ。日報を書くこともその延長線上にあるはずなのだが、実際にはどうにもこうにも気が進まない。特に、夜も更けてきて目が乾燥し始めた頃にパソコンに向かうと、まるで画面の光に責められているかのような気分になる。今日もギリギリまで粘ってしまい、書き出しはもう23時過ぎ。そんな時間に、果たして冷静に一日の振り返りができるだろうか。

日報なんて誰のために書いてるんだろうか

独立してからというもの、上司に提出するような日報は当然存在しない。誰にも見られない記録をなぜ書くのか、正直その目的を見失うことが多い。いや、書かないよりは書いたほうが「何かやってる感」はある。でも、その「感」が欲しいだけで実際には内容も薄っぺらいことが多い。自己満足か、未来の自分のためか、もしくは単なる作業の惰性か。答えが出ないままカーソルは点滅している。

一日の終わりに疲れ果てた頭で綴る言葉たち

日報を書く時間帯というのは、だいたい一日の業務がすべて終わったあとの“残りカス”のような時間だ。事務員さんは先に帰り、事務所の電気も半分は落としてある。静まり返った空間に、自分のキーボードを叩く音だけが響く。頭も働かず、目はしょぼしょぼで集中力もゼロ。そんな状態で書いた日報が、後日読み返しても「何を書いてんだこれ…」と自分でも苦笑いするようなものになっている。

書いたところで誰が読んでるのかという虚無

人に見せるわけでもないし、AIに分析させてるわけでもない。自分だけが読む日報に何の意味があるのかと思うと、むしろ自問自答の時間になってしまう。昔、日記をつけてた時期があったけど、それと何が違うのか。少なくともその日記は恋の悩みとか書いてた。今の自分には、そんなロマンチックな悩みもない。書く理由が“義務”だけになると、人間はとたんに苦しくなるものだ。

とりあえず机に向かってパソコンを開く

書く気はなくても、日報だけは「書かなかったら罪悪感」という変なルールが染みついている。たとえばスポーツ選手が毎朝走るように、私は日報だけは書くという妙な習慣がある。目が疲れてようが、気分が落ちてようが、何かしら書く。とはいえ、内容はまるで成長しない。今日の出来事をただ羅列するだけになってしまっている。

目が乾いて文字がにじむという現実

40を過ぎてからというもの、パソコンの画面を見るだけで目の疲れがひどい。ブルーライトカット眼鏡を買ってはみたものの、かけるのを忘れる。結局、まばたきもせずに書き始めて、気がつけば視界がにじんでいる。カーソルがどこにあるかもわからなくなって、書いた文字がうまく読めずにイライラが募る。そういう日はだいたい誤字脱字もひどい。

一行書くごとにまばたきのリズムが狂っていく

目がしょぼしょぼする原因の一つに「集中しすぎること」がある。日報は一行ごとに「今日何があったっけ…」と思い出しながら書くので、まばたきのタイミングも狂う。まばたきが減ると目が乾く、乾くと見えにくい、見えにくいと書くのが遅くなる、遅くなると眠くなる…。この負のスパイラルに入ると、もはや拷問でしかない。

それでも毎晩書く理由は多分心の整理のため

じゃあやめればいいじゃん、と思うけれど、やめたらやめたで不安になるのが人間の不思議なところ。たとえ意味のない言葉の羅列でも、自分がその日どんな感情でいたのかを残すことには意味がある気がしている。日報というより、半分は愚痴日記。きれいに整ったビジネス文章じゃないけれど、それでも自分の内側を吐き出すことで、なんとなく心が整うような気がする。

誰にも話せないことを日報に落とし込んでいる

本音を言える相手がいない夜は、とくに日報に思いを込めがちになる。誰にも言えない不満や寂しさ、独り言のような悩み。誰かに聞いてほしいけど、それが叶わないからこそ、画面に向かって一人ごとのように書いている。書き終わるころには、少しだけ気持ちが軽くなる。それが唯一の救いだ。

目がしょぼしょぼでも明日につながる言葉を

しょぼしょぼした目で書いた文章が、翌朝読み返すと案外いいことが書いてあったりする。そんなとき、「昨日の自分、よくがんばったな」と思えるのだ。司法書士という仕事は、感情を抑えて論理を優先しがちだ。でも人間は機械じゃない。感情の整理の時間がなければ、どこかで壊れてしまう。今日もまた、目を細めながら、ひとことだけでも書いて眠る。それだけで、明日がほんの少し楽になるかもしれない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。