戸籍を扱う日々の中でふいに自分の名前を見た
司法書士という職業柄、戸籍の書類に触れるのは日常茶飯事です。誰かの婚姻、出生、死亡、離婚、筆跡、空欄。淡々と処理する毎日ですが、ある日、たまたま必要書類として自分の戸籍謄本を取り寄せる場面がありました。郵送されてきた封筒を開け、中を見た瞬間、何とも言えない感情がこみ上げてきたのです。書いてあるのは事実だけ。でも、その「事実」が、妙に心に刺さりました。
よその人の戸籍なら淡々と処理できるのに
他人の戸籍を見て「これは寂しいですね」なんて感想は持ちません。ただの業務、ルーティンです。しかし、自分の戸籍に書かれた「未婚」「父・母」「続柄:本人」の文字を前にしたとき、無意識に深呼吸をしていました。なぜだか、戸籍の中の自分が、誰ともつながっていないように感じたのです。名前と生年月日、それだけで構成されている一枚の紙。その簡潔さが、逆に胸を締め付けるものでした。
冷静に処理していたはずの書類に感情が追いつく
机に広げたその書類は、いつもの様式で、見慣れたレイアウトのはずなのに、そこに自分の名前があるだけで、まったく違う印象を持つのです。まるで、病院の検査結果に自分の異常値を見つけたときのような、現実を突きつけられる感覚。「未婚」と書かれていることが、これほどまでに破壊力を持つとは思いませんでした。自分が選んできた道なのに、書類がそれを記録しているという事実が、なんとも堪え難いものでした。
仕事モードのスイッチが切れた一瞬だった
普段はスーツを着て、印鑑を押して、書類を整えて。そんな“業務用の自分”が、戸籍の一枚で一気に崩れてしまう瞬間。ふと時計を見れば昼休みも過ぎていて、電話も鳴らず、ただ静かな事務所に自分だけ。コーヒーの湯気がゆらゆら揺れているのを見つめながら、ただ、ぼーっとその紙を見ていました。泣くほどではない、でも、泣きそうになる。そんな微妙でやり場のない感情が、しばらく続きました。
独身という二文字の破壊力
「未婚」や「独身」という言葉は、ふだんは自分に関係ないような顔をして聞き流していました。だけど、自分の戸籍にしっかり記載されたそれを目の当たりにしたとき、自分の人生に向き合わされるような気がして、居心地が悪くなりました。世間の評価ではなく、自分自身の納得の問題。それでも、「何も残していない」ような気持ちが押し寄せてきて、ひどく疲れてしまいました。
未婚と書かれた自分を客観視してしまうとき
仕事ではクライアントの状況に寄り添う姿勢を持ちつつも、自分自身のことは後回しでした。家族を作るとか、誰かと暮らすという未来像も、曖昧なまま。そんな中で、戸籍に書かれた「未婚」の文字は、まるで未来の自分を固定してしまったかのような錯覚を生みます。ああ、自分は「この状態」で続いていくんだな、と。事務的な情報が、じわじわと心に入り込んできました。
他人には「事務的です」と言っておきながら
お客様に対しては、「戸籍はただの記録ですから、深く考えすぎないでくださいね」と笑って説明していたのに、自分の番になるとまったく違います。戸籍の内容そのものよりも、それを読む自分の状態の方が問題なのかもしれません。疲れていたのか、どこか心に余裕がなかったのか、ただただ、感情が思考を追い越してしまって、どうにもならない数分間でした。
書類の中の自分に妙な孤独を感じる
婚姻欄も続柄欄も空白のまま。兄弟も家族も書かれておらず、「本人」だけが浮いているようなその一枚。あれほど整然と並んだ文字が、こんなにも「空っぽ」に見えることがあるのかと驚きました。孤独というより、「誰ともつながっていない実感」がふいに襲ってきて、少し怖くなりました。物理的にひとりなのはわかっていても、文字で見せつけられると、より強く感じます。
書類上はただの情報 でも人間の心は別
戸籍というのはあくまで事務手続き上の情報であり、法律的には感情は一切関係ない。でも、見てしまうと関係してしまう。そういう矛盾があるんです。どんなに理性的でいたいと思っても、自分の人生が紙の上に並べられていると、どうしてもその「空白」や「文字の少なさ」が心に引っかかってくる。それは、たぶん司法書士である前に、一人の人間だからなんだと思います。
データとしての戸籍と人生の重み
戸籍謄本には、名前、生年月日、父母の名前などが記載されています。そこにある情報はすべて事実。でも、その事実の背後にある「時間」や「感情」までは記されていません。自分でその情報を書いたとしても、それを読み返したとき、思っていた以上に心が動いてしまうことがある。たとえば、「未婚」という2文字に、過去の選択や今の生活の意味までもがにじみ出てしまうのです。
家族の欄が空白であることの現実味
何もない欄ほど、感情が入り込みやすいものだと気づきました。父母の名前はある。けれど、自分の家族の項目は空欄。その現実を受け入れていたはずなのに、いざ目の当たりにすると、胸がズンと重くなる。結婚していないこと自体は問題ではない。でも、「自分は誰とも家庭を築いてこなかったんだ」という感覚に直面すると、ちょっとばかり心が冷えてしまいます。
自分の人生を淡々と記録した紙が突きつけるもの
戸籍は感情を持たない。でも、それを読む私たちには感情があります。そのギャップに苦しむのが、司法書士という職業の皮肉なのかもしれません。普段は人の戸籍を整理し、説明し、提出する側。でも、自分の戸籍を前にしたとき、それはただの書類ではなく、「記録された自分の人生」になってしまう。しかもその人生が、誰とも交わらずに続いていると、強く突きつけられるのです。
元野球部のプライドも崩れる瞬間がある
かつては汗まみれになってボールを追いかけていた元野球部。勝利を目指して仲間と叫び合った日々。あのころの自分は、こんな孤独な書類を見て泣きそうになるなんて、想像もしなかったと思います。あの熱量や絆はいったいどこに消えてしまったのか。司法書士という堅い職業のなかで、いつの間にか自分を抑え込むようになっていたのかもしれません。
どんなに頑張っても評価されない種類の寂しさ
野球は点が入ればわかりやすい。でも、司法書士の仕事は「何も起きないのが当たり前」。だからこそ、努力が見えにくい。そして、誰かに喜ばれることがあっても、それが自分の心の隙間を埋めてくれるわけじゃない。そんなとき、自分の戸籍が静かにその「隙間」をあぶり出してくる。誰かに認められたい気持ちや、何かを残したいという焦りが、静かにこみ上げてくるのです。
チームプレイの青春と今の孤独のコントラスト
昔は毎日、声を出し合って、勝利に向かって走った仲間がいた。今は、事務所にひとり。事務員が休みの日なんかは、誰とも会話しないまま夕方になることもある。そんな生活が続くと、ふとした瞬間にあのころの自分と今の自分の距離感に愕然とします。紙の上では、「本人」という二文字が、それをすべて物語っている気がしてなりません。
それでも毎日書類をさばく意味
泣きそうになっても、翌日も戸籍を見る仕事は続きます。それがこの仕事の現実です。でも、その書類のひとつひとつに、誰かの人生が詰まっている。そう思うと、やはり手を抜けない。自分の人生に迷いながらも、他人の人生の節目を正しく処理することで、どこか救われているような気もするのです。
愚痴をこぼしながらも、やめない理由
「しんどい」「しょっぱい」「モテない」「老けた」…そんな愚痴ばかりですが、結局この仕事をやめないのは、誰かの役に立っているという実感があるから。たとえ自分の戸籍に涙がにじんでも、それはそれで生きている証拠。書類が無言で突きつけてくるものと向き合いながら、それでも仕事をしている自分を、少しだけ誇りに思いたいのです。
泣きそうになる瞬間すら、誰かに届けば
この文章も、いつか誰かが読んで、「わかる」と思ってくれたら、それだけで十分です。司法書士として働いていると、感情を押し殺す場面も多い。でも、本当は人間です。泣きそうになることもある。そんな気持ちを共有できる場があるだけで、救われる人はいるはず。だから今日もまた、戸籍の文字を眺めながら、仕事に戻るのです。