静かな午後に訪れた小さな悲劇
その日はいつも通りの午後だった。昼食後の書類確認と登記申請の準備をしながら、机に並べた書類をチェックしていると、事務所のドアが軽やかに開いた。「こんにちはー」と明るい声。依頼人の女性が、ふわふわの白猫を抱えて現れた。普段は動物同伴はご遠慮いただいているが、その日はなぜか「どうしても預けられなくて」と押し切られ、猫も一緒に打ち合わせをすることになった。もちろん嫌な予感はしていた。でもまさか、あんな展開になるとは夢にも思わなかった。
書類を届けに来た依頼人とその猫
その依頼人は、数年前にも一度手続きを依頼してきた方で、今回は実家の相続手続きのための遺産分割協議書を持参された。彼女は少し緊張していたようだが、猫の方は堂々たる態度で、まるで事務所が自分の家であるかのように振る舞っていた。私も元野球部のせいか、大柄で猫とは相性が悪い。猫は私の足元にまとわりついたかと思えば、突然ジャンプして机の上に飛び乗った。次の瞬間、信じられない光景が目の前に広がった。
目の前でビリビリに破かれた遺産分割協議書
猫が机の上に降り立った直後、その小さな前脚が契約書の端に引っかかり、まるで狙ったかのようにビリビリと音を立てて破き始めた。「あっ…」という私の声も虚しく、書類は数秒で無残な姿に。依頼人は「ごめんなさい!すぐ印刷し直します!」と顔を真っ赤にして謝っていたが、私の心の中では、すでにスケジュールが狂うことへの苛立ちと、午後の静けさを壊された悲しさが渦巻いていた。笑うに笑えず、怒るに怒れず、ただ肩の力が抜けていった。
笑うに笑えないけど怒れもしない
破かれたのはたかが一枚の紙。でも、それを準備するのにどれだけのやりとりと確認作業があったかを思い出すと、ため息しか出てこない。事務所に戻ってからもう一度確認して、差し替えの準備をするのは当然こちら側。猫に文句を言っても仕方がないし、依頼人を責めるわけにもいかない。怒る矛先がなく、感情の置き場が見つからないのが一番つらい。
猫に罪はないけど被害はこっち持ち
猫はその後も悪びれる様子もなく、事務所の中を我が物顔で歩き回っていた。まあ、猫に反省を求めるのも酷な話だけれど、こっちは本気で焦っている。再作成のために時間を割き、予定していた別件の書類確認を後回しにする羽目になった。依頼人の方は「何かお詫びを…」と申し出てくれたが、こちらとしては「もういいですよ」と言うしかない。結局、ミスも事故も全部、こっちで吸収するしかないのがこの仕事の宿命だ。
事務員さんの冷静すぎる一言に救われる
事件のあと、事務員さんがぼそっと「これ、日記に書けますね」と言ってきた。最初は何を言ってるんだと思ったが、妙にその言葉がツボに入った。確かに、猫に契約書を破られたなんて、なかなか珍しい経験ではある。彼女のその冷静さと少しズレた感性が、今の私にとってどれほど救いになっているか。大げさじゃなく、彼女がいなかったらたぶんやっていけてない。
積もる疲れと小さな出来事の破壊力
毎日がバタバタしていて、自分が今どこに立っているのかすらわからなくなるときがある。そんなときに限って、こういう小さな出来事が、心を大きく揺らしてくる。猫が書類を破いた、ただそれだけの話。でも、それによって他の業務が遅れ、気持ちにも余裕がなくなり、すべてがズルズルと崩れていく。まるで積み木が一つ欠けて、全部崩れるような感覚だった。
「また明日やればいい」が通じない現実
一般の仕事と違って、司法書士の業務は「今日やらなきゃ間に合わない」案件ばかりだ。登記の締切、提出書類の有効期限、印鑑証明の期限切れリスク…。すべてが綱渡りだ。だからこそ、ちょっとしたトラブルでも取り返しがつかない事態になりかねない。「明日でいいか」ができない世界にいる以上、猫の爪あとひとつが業務全体に影響する。理不尽だけど、それが現実だ。
依頼人には何も言えないもどかしさ
依頼人には「大丈夫ですよ」としか言えない。相手の過失であっても、責任を追及すれば信頼を失う。こっちが我慢して笑って済ませることで、その場の空気が保たれる。それが本当に正しいのか、時々わからなくなる。でも、多分これが士業という仕事なのだろう。人間関係の中で、感情を押し殺すのもまた、報酬の一部なのかもしれない。
スケジュールが詰まり過ぎてるのが悪いのか
自分の段取りが甘かったのかと反省もする。もう少し時間に余裕があれば、こんなに焦らなかったのかもしれない。でも現実は、午前中から予定びっしり。昼休憩すら満足に取れず、午後の書類チェックも最小限の集中力でこなしていた。全部がギリギリで回っているからこそ、たった一つのトラブルが致命傷になる。その状況を作っているのは、他でもない自分自身なのかもしれない。
書類が破れただけなのにふと湧いてくる孤独
破れたのは紙だけ。でも、心の中にふっと穴が空いたような感覚が残った。仕事がうまく回らない日、誰にも頼れない感覚が襲ってくる。家に帰っても話し相手はいないし、SNSを開いても疲れるだけ。人間関係の断片がどんどん薄くなっていく。猫にやられた午後、私の孤独感はいつもより濃かった。
この仕事を一人で回してる寂しさ
事務員さんはいてくれる。でも、最終的な判断も責任も、全部自分が背負っている。この事務所を維持するのも、依頼人に誠意を見せるのも、全部自分だ。肩にかかるものが多すぎて、たまに崩れ落ちそうになる。でも、誰かに「つらい」と言うのが苦手で、結局また黙って耐えてしまう。そういうところ、野球部時代と変わってないなと思う。
誰にも話せない愚痴を猫が聞いてたら
ふと、あの猫に話しかけていたらどうなっていただろうか。書類を破った犯猫ではあるけれど、あの大きな目でじっとこちらを見ていたら、なんとなく話しかけてしまいそうになる。愚痴を誰にも吐き出せないこんな日は、動物の無言の存在がありがたくもある。皮肉な話だけれど、書類を破ったのが人間じゃなくて猫で良かったと思った。
司法書士は書類に泣かされて生きている
司法書士の仕事は書類に始まり、書類に終わる。そして、書類に泣かされる。誰にも理解されないような小さな苦労が積み重なり、それでもミスは許されない。その緊張感の中で、たまに現れる「猫」のような存在が、良くも悪くも日常をかき乱していく。でも、それもまたこの仕事の一部で、たまにネタになるだけマシなのかもしれない。
破けたのが書類だけで良かったと強がる
本当に壊れてしまったのが自分の心じゃなかったことに、少しだけ安心する。紙は印刷し直せる。でも人の心は、そう簡単には戻らない。今日もなんとかやりきった。そう自分に言い聞かせながら、次の案件の書類を開く。どこかで、また同じような午後が来るんだろうなと思いながら。
ほんとは破けそうなのは自分かもしれない
結局、猫の爪あとよりも、日々のプレッシャーの方がずっと鋭い。仕事、責任、信頼、孤独――そういうものに少しずつ削られて、自分の中にあった何かが破けそうになっている。でも、まだ持ちこたえている。それだけは誇っていい。そう思いながら、今日も机に向かうのだ。