「大変ですね」に涙が出そうになる日
司法書士をしていると、日常的に「大変なお仕事ですね」と言われることがある。正直、そんな言葉には慣れてしまっているつもりだった。社交辞令だとわかってるし、悪気なんてないこともわかってる。だけど、今日のそれは、なぜか心に沁みてしまった。依頼人の年配の女性が帰り際にふとつぶやいたその一言が、胸の奥にズシンと響いた。「ああ、自分って本当に疲れてるんだな」と気づいた瞬間だった。何気ない言葉が、心の蓋をそっと開けることがある。涙が出そうになるのは、弱さじゃなく、張り詰めた糸が緩んだ合図なのかもしれない。
言われ慣れた言葉なのに今日は違った
「大変ですね」という言葉は、接客業をしていればよく耳にする。自分だってコンビニのレジで並んでいたとき、暇つぶしに店員さんに同じような言葉をかけたことがある。あれも、相手を思いやったというより、ただその場を和ませるための一言だった。でも、今日は違った。相手の表情が、やさしくて、痛みに気づいてくれたような感じがして、つい心が緩んだのだ。机に山積みの書類、期限の迫る案件、電話の呼び出し音、どれもが「もう限界だ」と無言で訴えていたのかもしれない。たったひと言に、そんな自分を見透かされたようで、思わず目を伏せた。
疲れが心に届いた瞬間
たぶん、疲れは毎日のようにたまっていた。けれど「疲れた」と声に出すのがなんとなく怖かった。言ったら崩れてしまいそうで。だからこそ、誰かに察してもらえると、それだけで泣きそうになる。依頼人の「大変ですね」は、きっと深い意味はなかった。でも、こっちの状態によって、ただの言葉が刃にも癒しにもなる。その瞬間、自分の内側にある「しんどさ」が、静かに浮かび上がってきてしまった。大人になると、疲れたなんて簡単に言えない。でも、疲れた気持ちは、ちゃんと誰かに伝わることもある。
無意識に求めていた共感
本当は誰かに聞いてほしかったのかもしれない。「最近どう?」とか「無理してない?」って。そんな言葉を待ってた自分に気づいて、少し恥ずかしくなった。でも、孤独な現場で一人踏ん張るなか、誰かがそっと寄り添ってくれる瞬間って、本当にありがたい。司法書士という仕事は、相手の感情を受け止める場面が多い。だけど、自分が感情を吐き出す場所は少ない。だからこそ、ちょっとした共感が心の支えになる。疲れを認めることは、弱さじゃない。人として大切な反応なのかもしれない。
「大変」って何が大変か自分でも分からない
じゃあ、何がそんなに大変なんだ?と聞かれたら、案外言葉に詰まってしまう。仕事内容なのか、人間関係なのか、収入の不安定さなのか。全部がちょっとずつしんどいだけで、決定打があるわけじゃない。だからこそ、説明が難しいし、誰にも共感されづらい。自分で選んだ道だし、誰かに押しつけられたわけじゃない。それなのに、しんどいと思うたびに罪悪感がわいてくる。こんなに自由に仕事してるのに、何に文句があるんだって、自分に言い聞かせてる。
書類に追われるだけじゃない
司法書士の仕事は、単に書類をつくって提出するだけじゃない。依頼人の人生に関わることばかりだし、プレッシャーもそれなりにある。登記のミス一つで信頼がガタ落ちになる。そういう神経の使い方が、じわじわと蓄積してくる。たとえば登記完了の報告を電話でしたとき、相手の「ありがとうございます」の声に安堵する反面、「また明日もこれが続くのか」と思ってしまう瞬間がある。達成感と疲労感が同居するような毎日だ。
人の感情の受け皿であること
相続や離婚、会社の解散、借金の整理…司法書士が関わる案件は、誰かの人生の転機であることが多い。だから、感情のぶつけ先としてこちらが選ばれることもある。「こんなに大変だなんて思わなかった」とか「もっと早く終わると思ってた」とか。そういう言葉も、ぐっと飲み込むしかない。文句を言いたい気持ちもあるけれど、プロである以上、それを顔に出すわけにもいかない。そんなふうに、自分の感情を押し込めることが、実は一番の疲労になっていたりする。
誰にも見えない重圧との付き合い方
独立して仕事をしていると、誰かに愚痴をこぼすという行為がどんどん難しくなる。上司がいないぶん、叱られることもないが、認めてもらえることも少ない。自分で自分を励まさなきゃいけない日々は、思っている以上に孤独だ。事務員がいてくれるとはいえ、全部を共有できるわけでもない。相手にも気を遣ってしまうし、余計な重荷を背負わせたくないという思いもある。だからつい「一人で抱え込む」ことが習慣になってしまう。
ひとり事務所の現実
事務所は小さい。自分と事務員の二人だけ。それでも日々の業務に追われていれば、会話も必要最小限になる。お互い気を遣っているからこそ、無理にしゃべらない。けれど、それが逆に孤独を増す。今日のように気持ちが沈んでいる日は、誰かと雑談をしたくなる。でもタイミングがない。昔、野球部でベンチを温めていたときは、仲間とバカ話でもして笑っていればよかった。でも今は違う。誰かと肩を並べて泣くことすらできない世界だ。
事務員がいるありがたみと心細さ
事務員がいるというだけでも、本当はかなり救われている。でも、その存在に頼りきってはいけないという意識がある。彼女にも家庭があるし、プライベートがある。仕事の愚痴なんて聞かせたくないし、巻き込んでもいけない。だから結局、自分のことは自分で処理するしかない。だけど、人はそんなに強くない。たまには誰かに頼りたいと思うのも自然なことなんだと、頭ではわかっている。けれど実際に頼るのは、やっぱり難しい。
気軽に弱音を吐ける相手がいない
学生時代の友人とは疎遠になっているし、異性の友達もいない。そもそも、恋愛なんてこの忙しさでは成り立たない。気軽にLINEできる相手も、飲みに誘える仲間も、最近じゃほとんどいない。だからこそ、「大変ですね」という一言が、どこか懐かしく、あたたかく感じられたのだと思う。誰かに甘えたい気持ちが、まだどこかに残っていたのかもしれない。元野球部で、気合と根性で乗り切るタイプだったけど、年齢とともにそれも限界があると実感している。
勝手に傷ついて勝手に立ち直る
結局、誰かに助けを求めることもできずに、自分で落ち込み、自分でなんとか回復する。それが自分のやり方になってしまった。効率は悪いけど、誰にも迷惑をかけずに済むから。だけど、そんなやり方がいつまでも通用するとは限らない。限界がくる前に、少しずつでも「助けて」と言える自分にならなきゃなと思う。今日はその第一歩だったのかもしれない。「大変ですね」に、少し泣きそうになったこと、それ自体が、少し前進なのかもしれない。
それでも続ける理由を思い出す
ここまで読んで、「なんでそんなに大変なら辞めないの?」と思う人もいるかもしれない。でも、この仕事には、この仕事にしかないやりがいがある。誰かの人生の節目に立ち会えるという責任感。無事に登記が終わったときの安心感。依頼人の「ありがとう」の言葉。その一つ一つが、まだ続けようと思わせてくれる。
元野球部の粘り強さがまだ残ってる
野球部時代、勝てないチームだったけど、最後まであきらめずにバットを振った。あのときの粘り強さは、今も少しだけ残っていると思う。日々の業務に打ちのめされても、次の日にはまた机に向かってる。負け癖がつかないように、なんとか毎日を踏ん張ってる。そんな自分を少しだけ誇ってもいいのかもしれない。
踏ん張るのが当たり前になっていた
気づけば、「頑張ること」が日常になっていた。頑張らなきゃ生活も成り立たないし、信用も失ってしまう。けれど、踏ん張るばかりじゃ続かない。たまには手を抜くことも、サボることも必要だと最近思うようになってきた。それができるようになるのが、大人になるってことなのかもしれない。
モテない男のしぶとい生き様
若い頃は「モテたい」と思ってた。でも今はもう、そんなことよりも「ちゃんと生きていたい」という気持ちの方が強い。毎日を丁寧に、誰かに恥じないように生きていたい。見た目も地味で、話も上手くないし、異性に好かれる要素なんてゼロだけど、真面目に、誠実に仕事をしていれば、きっと誰かには届く。そう信じている。
優しさだけでは食っていけないけど
この業界、優しいだけでは通用しない。時には厳しさも必要だし、自分を守る術も必要。でも、優しさを捨ててまで続けたいとは思わない。だからこそ、バランスが難しい。でもそれを考え続けること自体が、自分の人間性なんだと思っている。今日「大変ですね」と言ってくれた人に、ちょっとだけ救われた。だからまた、明日も頑張れる。