夕方になってふと虚しさが押し寄せる
夕方、事務所の片付けをしていると、ふと手が止まりました。「今日は何をやってたんだっけ?」と頭の中が空っぽになる瞬間。登記の完了処理も終え、依頼者への書類発送も済ませ、事務員はすでに退勤済み。事務所には自分ひとり。静まり返った空間で、自分の存在だけが浮いているような感覚になります。なんだかんだと忙しく過ごした一日なのに、残っているのは達成感よりも虚無感。この感情、司法書士になってから何度味わったことか。
忙しさに追われている間は考えずに済む
朝から電話が鳴り止まず、依頼人との応対や法務局への問い合わせ、事務員への指示、登記の記録チェックと目まぐるしく動いているときは、むしろ気持ちは楽なのかもしれません。思考する余裕すらないと、感情もわいてこない。昼食もコンビニのおにぎりで済ませ、休む間もなく働いていれば、気がつけば夕方です。けれど、その「余白」が生まれた途端、急に心が寒くなる。そんな繰り返しです。
今日も登記の処理は終わったけれど
おそらく、今日の仕事に問題はありません。登記の手続きも正確にこなしたし、依頼人にも不満の声はなかったはず。でも、「無事終わった」という安心感と「誰かの役に立てた」という実感はまったく別物です。特に最近は、感情のこもらないメールのやり取りばかりで、感謝も不満もほとんど届かない。自分の存在意義が、ただの作業代行者のように感じる日も増えてきました。
事務員と交わした言葉はおはようとお疲れ様だけ
事務員とのやり取りも、最近は必要最小限です。相手が悪いわけじゃありません。むしろ気を遣ってくれているのも感じます。でも、今日一日で交わした言葉は「おはようございます」と「お疲れ様でした」くらい。なんとも味気ない関係です。人と関わっているようで、実は孤独。そう思う瞬間が、日に日に増えてきました。
目に見える成果が喜びにつながらない
昔は、ひとつの登記が完了するたびに小さな達成感がありました。「よし、また一歩前進した」と思えた。でも今は、ひとつ完了させても「次は何?」と自分に問いかけるばかり。成果は確かに出ているのに、気持ちは満たされない。むしろ、終わらせることに追われてしまって、達成感を味わう余裕すらないというのが現実です。
通帳の残高は少しずつ増えているはずなのに
売上がないわけじゃない。むしろ、開業当初より安定して稼げているはずです。けれど、通帳の残高を見ても心が晴れることはありません。「このお金は何の代償なんだろう」と考えることさえある。時間?体力?孤独?たしかに報酬は得ている。でも、それと引き換えに何か大事なものを削り続けているような気がしてならないのです。
ありがとうの言葉がある日とない日
不思議なことに、依頼人から「ありがとう」と一言もらえるだけで、その日は少し報われた気になるんです。でも、そんな言葉がない日が続くと、やはり心が乾いてきます。感謝されるために仕事をしているわけではありません。でも、相手の人生に関わっている以上、その反応が何もないと、こちらの存在が薄れていくように感じるんです。
仕事の成果と自己肯定感は別物だった
司法書士という仕事は、結果が数字や書類に現れます。でも、その「成果」と、自分の存在を肯定できるかどうかはまったく別問題です。人からの評価や報酬だけでは、心の芯まで満たされない。だからこそ、仕事が終わった後のこの空虚感が、時折、自分を襲ってくる。成果が出ても、「自分はちゃんと生きてる」と思えない日もあるのです。
誰かの人生を支える仕事をしているはずなのに
司法書士という職業は、依頼者の人生の転機に関わる仕事が多い。相続、売買、離婚、会社設立――そのどれもが大事な節目です。そうした瞬間に関与しているはずなのに、自分の中に「やりがい」が見えなくなるときがある。まるで人の人生の通行手形だけを整える係になったような、そんな錯覚に陥ることがあります。
感謝されるために働いてるわけじゃないけれど
何度も自分に言い聞かせてきました。「感謝されるためじゃなくて、信頼に応えるためにやってるんだ」と。でも、どこかでその信頼も、ただの形式的な依頼になってきている気がして、むなしくなります。仕事は回っている。でも、人の心とはすれ違っている。そんな感覚です。
それでも心が乾くときがある
一生懸命やってるはずなのに、気づけば心が乾いている。仕事の充実と、感情の充実は、やはり一致しない。お金も仕事もあるのに、何かが欠けている。この「何か」が何なのか、未だに分かりません。けれど、その欠落感は確かに存在していて、ときに足を止めさせるのです。
独身であることと仕事に生きることの重なり
もう何年も、家に帰って「ただいま」と言ったことがありません。食事は一人。夜の静けさに包まれて、翌日のスケジュールをぼんやり眺める。司法書士として生きることと、独身でいること。その両方が重なって、気づけば人生そのものが仕事中心になっていました。別にそれが悪いとも思いません。でも、ときどき、誰かのぬくもりが恋しくなるのです。
誰かに話したくても誰もいない夜
今日あった出来事を誰かに話したい。でも、電話をかける相手がいない。LINEは連絡業務ばかりで、友人とも疎遠になりつつある。そんな夜、ふと「俺、何やってんだろう」と思うことがあります。孤独というより、空洞に近い感覚。それを埋める方法は、今のところ分かりません。
家に帰って流すスポーツニュースだけが味方
元野球部だったせいか、夜に見るスポーツニュースが唯一の癒やしです。プロ野球の結果や選手のインタビューを見ながら、なぜかホッとする。頑張ってる人の姿には救われます。誰にも見られていない中でも、ちゃんと全力でやってる選手たち。その姿を見て、明日もなんとかやってみようかと思えるのです。
それでも辞めなかった理由を思い出す
この仕事を辞めたら楽になるかもしれない。そんな思いが頭をよぎることもあります。でも、それでも続けているのは、自分なりに「誇り」があるからだと思います。どんなに小さくても、自分が誰かの役に立てているという実感。それがたとえ一瞬でもあるなら、それを信じて、もう一歩前に進める気がするのです。
司法書士という仕事を選んだあの日の自分へ
あのとき、なぜ司法書士になろうと思ったのか。正直、もう覚えていない部分も多い。でも、「人の力になりたい」という思いは、たしかにあった。知識と資格で、人の人生の支えになれる。そう信じて始めた仕事です。初心に返ることで、また少し、自分の存在に意味を持たせたくなるのです。
元野球部としての粘りと責任感
野球をやっていた頃、どんなに点差が開いていても、最後まで諦めなかった。ピッチャーで投げ続けた日も、エラーして落ち込んだ日もあったけど、「試合が終わるまでやりきる」という気持ちだけは強かった。それが今の仕事にも生きているんだと思います。粘ること、逃げないこと、それだけが今の自分の誇りです。
逃げ出さないことだけが誇りだった日々
正直、成果も評価もない日なんてたくさんあります。でも、それでも逃げなかった。事務所を開けて、仕事をこなし、日々をつなぐ。その地味な積み重ねこそが、人生なんじゃないかと最近思います。完璧じゃなくても、続けてきたこと。それだけは、胸を張っていいのかもしれません。