優しさが報われない気がするとき

優しさが報われない気がするとき

優しくするたびに、心がすり減る

「やさしいですね」と言われたことがある。でもその言葉の裏には、「便利ですね」と同じくらいの意味しかないことに気づくのに時間はかからなかった。司法書士という仕事は、法的な正確さと冷静さが求められる反面、人間の感情の機微と向き合う場面が多い。依頼人に寄り添えば寄り添うほど、こちらの精神は摩耗する。やさしさで乗り切れると思っていたのに、むしろ自分のやさしさが、自分を傷つけていたのかもしれない。

「この人のために」と思った自分がバカみたいになる瞬間

昔、ある高齢の依頼人のために、何度も無料で相談に乗ったことがある。電話が鳴れば夜でも出たし、必要があれば役所まで一緒に行った。でも最終的にその方は、別の事務所に依頼してしまった。何が足りなかったのか、自問自答したけど答えは出ない。「親切にしてくれたけど、あっちはもっと安くやってくれるから」という一言で、全部が終わることもある。やさしさは、簡単に捨てられる使い捨ての道具なのかと思ってしまう。

感謝もされず、逆に責められることもある

一度、書類の処理に少し時間がかかったとき、「前の先生のほうが早かった」と面と向かって言われた。急ぎの案件だったから最善を尽くして対応したのに、結果だけで判断される現実が悔しかった。こちらがどれだけ尽くしても、感情的なひと言で全否定されることがある。「なんでこんなに頑張ってるんだろう?」と思うたびに、やさしさが虚しく空を切る。

正直者が損をするって、やっぱり本当かもしれない

正しいやり方で説明し、法的なリスクまでしっかり伝える。それが司法書士としての誠意だと思っていた。でも、その誠意は「融通がきかない」と評価されることもある。裏ワザ的な抜け道を提案する人のほうがウケがよかったりして、真面目にやってる自分がバカらしくなる。正直者は、やさしさを見せるほどに損をしていく。そんな気がしてならない。

お人好しなだけでは仕事は回らない現実

この仕事は、信頼が命。だからこそ、ついサービス精神で応じてしまう。でも、ただの「都合のいい人」になってしまっては、自分も事務所も潰れてしまう。やさしさだけでは乗り切れない。それを実感するたびに、自己嫌悪と戦っている。

司法書士に必要なのは、割り切り力かもしれない

割り切るのが苦手だ。困っている人を前にすると、どうしても放っておけない。でも、この業界で長くやっていると、ある程度の線引きが必要になることを思い知る。すべてを背負っていたら身が持たない。やさしさも、仕事としての「さじ加減」を学ばないと、ただの自己犠牲で終わってしまう。

「優しい=仕事できない」と思われる空気

やさしくすることが、弱さだと見なされる場面がある。特に男性の司法書士が感情的に依頼人に寄り添いすぎると、「頼りない」と言われる。きつく対応すれば「プロらしい」と評価されるのに、柔らかい態度を取ると「不安になる」と言われる矛盾。やさしさは、時にプロフェッショナルの対極に置かれる。

一人で抱えすぎて、壊れそうになる夜

誰にも弱音を吐けずに、一人で全部抱えてしまうことがある。事務員に心配をかけたくなくて平気なふりをするけど、帰り道でふと涙が出そうになることもある。そんな夜は、報われないやさしさの行き場を見失ってしまう。

「誰かに優しくしたい」気持ちが空回るとき

本当は誰かの役に立ちたいだけなのに、その気持ちが伝わらないどころか誤解されてしまうこともある。誠実に対応しているつもりでも、「面倒くさい先生」と思われていたらどうしようと不安になる。結局、やさしさは独りよがりなのかもしれないと感じて、どこか虚しくなる。

期待されても、報われるとは限らない

「先生なら分かってくれると思って」と言われると、つい頑張ってしまう。でも、その期待に応えたとしても、それが次の依頼につながるとは限らない。むしろ、次はもっと無理なことを求められるだけかもしれない。やさしさには上限があるけれど、期待にはキリがない。

「自分ばかり頑張っている」と感じた日

他の先生たちは、もう少し上手に立ち回っている気がする。自分だけが真面目に全部抱え込んでいる気がして、ふと孤独感に襲われる。努力が認められないとき、自分だけ取り残されたような気分になる。それでも、やさしさを捨てることができない自分がいる。

それでも、優しさをやめられない自分がいる

優しさが報われなくても、やめられない。心のどこかで「それでも誰かの力になれたら」と思っているから。愚かかもしれないけど、そんな自分のやさしさだけは否定したくない。

断れない性格が、首を締めていく

「少しだけなら…」が積もり積もって、自分の首を絞めていく。断れば楽なのに、後味が悪くなるのが嫌で断れない。誰かのために時間を削り、自分のことがどんどん後回しになる。そんな毎日が、積み重なって疲弊していく。

「また頼まれてしまった」その後悔

「先生、お願いできますか?」と言われると、断れない。終わった後に、「なんで引き受けたんだろう」と後悔する。でも、頼られると応えたくなってしまう。優しさと自尊心の境目が曖昧で、自分でもどこまでが本音か分からなくなる。

人のために動いてしまうクセの正体

誰かの役に立っていないと、自分の存在意義がない気がする。司法書士として働いている以上、誰かに必要とされることが嬉しい。でもその一方で、「誰かのために生きているだけ」の自分に気づく瞬間が、どうしようもなく空しい。

認められたい? いや、たぶん違う

承認欲求かと思っていたけど、たぶん違う。ただ単に、自分がそうしないと落ち着かないだけ。誰かの喜ぶ顔を見ると安心する。それは子どもの頃から変わっていない性分なのかもしれない。変えようとしても変えられないものが、人にはある。

家に帰っても、自分のことを後回し

食事も適当、部屋も散らかりっぱなし。自分のケアは後回し。人には「ちゃんと休んでくださいね」と言うくせに、自分は全然できていない。やさしさが自分に向かないことに、最近やっと気づいた。優しいだけでは、自分を救えない。

優しさが無意味だと思い始めたときに

全部が無意味に思える日もある。でも、それでもやさしさを持ち続ける人がいることを思い出す。それは、きっと「報われるかどうか」じゃなく、「自分がどうありたいか」の問題なんだろう。

「それでもいい」と思えたきっかけ

ある依頼人が、数年後に手紙をくれた。「あの時、先生が親切にしてくれたこと、ずっと忘れられません」と。その言葉だけで、少し報われた気がした。やさしさは、すぐには返ってこない。でも、どこかで、誰かに残っていることもある。

優しさの見返りは、ずっと後から来るのかもしれない

すぐに評価されるものではない。だからこそ、焦らずにいたい。やさしさは、時間を超えて誰かの心に届くものかもしれない。そう信じることができたら、少しは気が楽になる気がする。

誰も見ていなくても、自分だけは知っている

誰にも気づかれなかったとしても、自分は自分のやさしさを知っている。それでいいと思えるようになれたら、少しだけ強くなれる気がする。報われることを目的にするのではなく、自分のあり方として、やさしさを選ぶ。それが、今の自分にできる精一杯の答えかもしれない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。