今日もひとり、机に向かう――静かに重なる責任の山
朝の事務所は静かだ。パソコンの起動音と、コーヒーを淹れるポットの湯気が立ち上る音だけが響く。外は晴れていても、気持ちはどんよりと曇っている。今日もまた、山のような書類と向き合う一日が始まる。司法書士という仕事は、誰かに誇れるような派手さはないが、その一枚一枚の書類の背後には、依頼人の人生や権利、時には家族の未来が詰まっている。だからこそ軽く扱えない。でも、その「重さ」は誰にも見えない。
ひとつ終われば、ふたつ返ってくる
ようやく1件登記が終わって、ホッとしたのも束の間。事務員が「この件、先生に確認してほしいそうです」と新しい依頼書を差し出してくる。終わったと思ったら、また新しい波が来る。司法書士業務に「一区切り」はない。完了は次の始まりだ。昔は「やれば終わる」と思っていたが、今は「終わると始まる」と思うようになった。まるでシーソーゲームだ。ひとつの達成感とともに、次のプレッシャーが襲いかかる。
業務完了の報告が、次の依頼の合図になる
依頼人に「登記完了しましたよ」と伝えた瞬間、感謝の言葉と同時に「実はもう一件お願いしたいことがありまして」と返ってくることが多い。頼りにされるのはありがたい。でも、本音を言えば「少しだけ、待ってほしい」と言いたくなる。報告が終わったタイミングで、気持ちを切り替える暇もなく次の依頼。自営業だから仕方がないが、気力のチャージが間に合わない。
「お願いしていいですか?」の一言に震える肩
「お願いしてもいいですか?」――その言葉を聞いた瞬間、条件反射のように「はい」と答えてしまう。でもその「はい」は、だんだん重くのしかかる。断れば仕事が減る。受ければ自分が潰れる。その板挟みで、肩が痛くなる。何か頼まれたとき、断る勇気を持つのも大事だとわかっていても、「期待を裏切りたくない」という性分がそれを邪魔する。頼られるたびに、自分の自由が削られていく。
事務員がいても、結局は自分の肩
一人でやっていた頃に比べれば、事務員がいてくれることの安心感は大きい。電話を取ってくれる、書類を用意してくれる、ありがたい。でも、肝心なところは全部自分が判断しなければならない。司法書士の名前で出す書類は、誰かに「代わってよ」とは言えないのだ。事務員の仕事の範囲を広げたい気持ちはあっても、責任の所在を考えると、つい手が出てしまう。
任せられること、任せられないこと
補助者に任せる仕事は山ほどある。でも、「これは間違えたら大変だな」と思うと、どうしても自分で確認したくなる。たとえば、登記原因証明情報の確認や、申請書の最終チェック。もしそこでミスがあれば、「事務員がやった」と言い訳するわけにはいかない。結局、自分で全部見て、責任も取る。事務員を信用していないわけではないが、「最後は自分でやらなきゃ」という思考が、日々の疲れを倍増させる。
「これ、間違えたらどうなるんですか?」の恐怖
事務員が書類を作りながら「これ、もし間違ってたらどうなるんですか?」と聞いてくることがある。悪気のない質問だと分かっていても、ドキッとする。そう、その「もし」が現実になったら、依頼人の財産や権利に直接影響を及ぼすことになる。そして、それを防ぐのが司法書士の役目。だから、ちょっとした確認や言葉の選び方にも、異様に神経を使う。自分のメンタルが摩耗していくのがわかる。
責任の所在と孤独感の重なり
「司法書士さんにお願いすれば安心です」と言われるたびに、嬉しさとともに肩の荷がずしりと重くなる。なぜなら、その言葉の裏には「あなたが間違えてはいけない」というプレッシャーが含まれているからだ。人に頼られることで孤独が癒されることもあるが、それと引き換えに、責任という重荷を一人で背負うことになる。独身であることも、ふとしたときに寂しさを増幅させる。
名前で背負う世界
司法書士の世界では、「名前」がすべて。書類に印を押すのは自分の名前、申請の責任者も自分の名前。だから、誰かの失敗も「○○司法書士がやった」と言われる。若いころ、先輩に「名前で仕事するってことは、名前で責任を取るってことだ」と言われたのを思い出す。あの頃はまだピンと来なかったが、今ならその意味が痛いほどわかる。誰かの名前ではなく、自分の名前で背負う仕事の重み。それは想像以上に重い。
司法書士の“ハンコ”が持つ重さ
実印を押すとき、少しだけ手が震えることがある。気づかない程度に指先に力が入る。なぜなら、そのハンコひとつで人の人生が動くから。相続登記、抵当権抹消、会社設立……それぞれに背景があって、それぞれに思いがある。その全てを感じながら押す印鑑の重さは、ただの事務作業ではない。責任というより、覚悟に近い。
知らない誰かの人生に責任を持つ日々
相談に来た人の顔も名前もすぐには思い出せないことがある。でも、その人の財産や人生の一部に、自分が深く関わっていたりする。まるで知らない人のドラマに、一時的に出演しているかのような感覚だ。関与する時間は短くても、その一瞬が人生を左右することもある。そんな仕事だから、軽くはできない。だけど、誰かに褒められるわけでもない。静かに、重く、責任だけが積もっていく。
「先生だから大丈夫でしょ?」という無責任
たまに言われる「先生なら大丈夫ですよね?」という言葉が、じわりと心にくる。安心してもらえるのはいいが、その期待が時に重荷になる。ミスは許されない、失敗は許されない、でも人間である以上、絶対なんてない。プレッシャーの正体は、こうした“無意識の期待”だ。
信頼とプレッシャーの区別が曖昧な世界
「信頼してますから」と言われると、心のどこかがキュッと締め付けられる。信頼されているのはありがたい。けれど、それが「プレッシャー」と表裏一体であることに気づいたとき、素直に喜べなくなる。信頼に応えようとするほど、自分のミスを許せなくなるという矛盾。信頼が重くのしかかる瞬間が、司法書士には確実に存在する。
笑顔の裏で、すり減る自分
依頼者の前では、なるべく穏やかに笑顔で接するようにしている。信頼感や安心感を与えるために、無理をしてでも笑う。でも、その笑顔の裏では、「あれもこれも終わっていない」という焦りや、「またトラブルが起きたらどうしよう」という不安がぐるぐるしている。疲れを感じていないふりをすることが、どれほど自分をすり減らすか。気づいたときには、もう結構消耗している。
それでも明日も、ここにいる
やめたいと思った日も、寝る前に泣いた日もある。それでも朝は来て、依頼者は待っていて、事務員はいつも通り出勤してくる。責任があるから逃げられない。でも不思議なもので、そんな日々の中にも、やりがいの種は転がっている。小さな「ありがとう」や、書類が受理された瞬間の安堵感。それだけを頼りに、また机に向かう。
責任を背負う覚悟と、背負いたくない気持ち
「もう無理」と思いながら、それでも辞められないのは、やっぱりこの仕事が嫌いじゃないからなのだろう。重い。しんどい。孤独。でも、誰かの役に立っていることは確かで、その実感があるから続けてしまう。背負うことに慣れたわけじゃない。ただ、背負い方を覚えただけだ。時々背筋が折れそうになっても、それでも立ち上がる自分がいる。
自分の仕事に意味を持たせるために
この仕事に何の意味があるのか、と自問する夜もある。それでも、「あなたに頼んでよかった」と言われた瞬間、その問いの答えがふっと見える気がする。正解なんてない。でも、誰かの不安を減らす一助になったのなら、それは意味のあることなのだと思いたい。今日も肩は重い。でも、それを背負える自分でいたい。