理想が高いと言われるけど違う

理想が高いと言われるけど違う

「理想が高い」と言われるたびに感じる違和感

「理想が高いよね」と言われることがある。これは褒め言葉じゃなく、どちらかといえば「現実を見ろよ」という皮肉混じりの一言だったりする。だが、本当にそうなのか? 自分なりに地に足をつけて、譲れない部分だけを守っているつもりなのに、それすらも「理想が高い」と言われると、何か引っかかるものがある。特にこの年齢になってくると、「そろそろ妥協すれば?」というような空気も感じるが、果たしてそう簡単に割り切れる話なのだろうか。

現実を見ているだけなのに、なぜか夢見がちにされる

「高望みしてるから結婚できないんじゃない?」そんなことを昔の同級生に言われたことがある。でも、よく考えてみてほしい。僕が求めているのは、華やかな美人でも、バリキャリでもなく、ただ一緒に安心してご飯が食べられる人。それすらも「理想が高い」と言われるなら、もう何も言えない。自分の置かれている現実をわかっているつもりだし、無理な夢を追っているつもりはないのだが、どうにも周囲の見る目は違うようだ。

求めているのは普通の安心感だったはず

20代の頃のような勢いはもうない。落ち着いた生活、静かな時間、ささやかな共感。それが欲しいだけだ。派手なデートや、インスタ映えする日常なんて、僕には必要ない。そう言うと、「それはそれでハードル高くない?」と笑われる。普通のことが難しい時代に生きてるのかもしれないが、それでも理想というよりは、生きていく上で必要な「安心感」を探しているに過ぎないと思っている。

比較対象がズレているとしか思えない

他人が勝手に「理想」を定義して、それに照らして僕をジャッジしているような気がしてならない。SNSで「理想の彼女像」とか「理想のライフスタイル」が溢れているから、それを基準にされたら、そりゃ僕は「理想が高い奴」に見えるかもしれない。でも僕自身は、比較して求めているわけじゃない。自分の性格や暮らしに合った、ごく自然な希望を持っているだけだ。

地方での出会いの難しさと「理想論」扱いの矛盾

この地域で出会いを求めること自体が、正直言って一種の修行のようになっている。人口も少なく、年齢層も偏っている中で、「理想が高い」と切り捨てられるのは納得がいかない。そもそも選択肢自体が少ないのに、選べる範囲で自分に合う人を探すのは自然なことではないだろうか。だけど、現実はなかなか噛み合ってくれない。

選択肢が少ない現実と向き合っているだけ

街の中を歩いていても、婚活イベントに参加しても、出会う人の数が極端に限られている。東京のように何百人もの中から選ぶのとは訳が違う。たとえ理想が高くなくても、そもそもの母数が少ない中で、合う人を見つけるのは容易じゃない。それを「理想が高い」と言われても、返す言葉が見つからない。ただ、生きる場所を都会に変える余裕もない。だから今の中でなんとかしようとしているだけなのに。

「理想」ではなく「妥協できない部分」がある

誰にだって譲れない部分はある。たとえば、暴力的でないとか、仕事に理解があるとか。決して贅沢な話ではない。でも、そうした最低限のことですら、「選びすぎ」と言われるのがつらい。世の中全体が、「何かを得るには何かを諦めろ」という空気に支配されていて、自分の価値観を貫くことが難しくなっている。けれども、自分を守るためにも、そこは譲れないと思っている。

独り身の理由を理想のせいにされる理不尽さ

何かとうまくいかないことがあると、「理想が高いからだよ」と言われる。でも、それって単なる説明の省略であって、真実じゃない気がする。実際には、単にタイミングが合わなかったり、縁がなかっただけかもしれない。なのに、まるで僕が求めすぎた結果だと結論づけられるのは、どうにも理不尽だ。独り身であることは僕の人格の問題ではなく、単なる状況の一つにすぎない。

仕事でも言われがちな「求めすぎ」問題

仕事においても、理想が高いと受け取られることがある。書類のチェックをきちんとやる、期日に厳しくする、説明を丁寧に行う。こうしたことは本来「当たり前」の部類のはずなのに、「そこまでやらなくても…」という反応が返ってくる。こちらはクライアントのためにベストを尽くしているつもりなのだが、それが逆に「細かすぎる」と捉えられてしまうこともある。

ちゃんとやろうとするほど煙たがられる現実

丁寧にやればやるほど、「うるさい」とか「神経質」と言われる。この風潮はどうにもやるせない。以前、登記の書類で軽微な誤字があって、それを直すよう依頼したら、「そんな細かいことまで」と苦笑された。だけど、その細かさが後々トラブルを防ぐ。経験上わかっていることなのに、それでもやはり「理想を押し付けてる」と受け取られてしまう。報われない思いになることがある。

「完璧主義」ではなく「責任感」なんだけど

僕は完璧を求めているわけじゃない。ただ、依頼された仕事を誠実にこなしたいだけなのだ。それがたとえ小さな仕事でも、登記のような一字一句が大切な業務でも同じ。なのに「理想が高い」「細かい」とされる。責任を持ってやることすら肩身が狭いなら、この仕事の意味って何だろう、とふと思ってしまう日もある。

理想が高い人へのレッテルは誰のため?

結局のところ、「理想が高い」と言う人は、自分の基準と違うものを排除したいだけなのかもしれない。自分の価値観を守るために他人を「理想が高い」と決めつける。そうやって距離を取る。でも、それはとても乱暴な話だ。理想があるからこそ、今の自分を支えているという面もあるのに、それを笑うような空気はどうしても受け入れがたい。

妥協しない姿勢に対する無言の圧力

世の中全体が「我慢してこそ大人」という風潮を漂わせている。妥協しない人は子どもっぽい、現実を知らない、そういう決めつけが蔓延しているように思う。でも、妥協ばかりでは何も築けない。多少時間がかかっても、自分に合った道を歩む方が、結局は満足のいく人生になるんじゃないだろうか。だから僕は、自分の小さな理想くらいは守り続けたいと思っている。

本当に高い理想とは何かを考える

「理想が高い」とは、突き詰めれば「目標を持っている」ということだ。何を大切にしたいのか、何を守りたいのか。それが周囲の基準と違うだけで、否定される理由にはならないはずだ。本当に高い理想とは、誰かを見下すことではなく、自分の価値観に誠実であること。だから僕は、これからも「理想が高い」と言われても、「違う」と胸を張って言いたい。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。