朝、玄関を出るときにふと足が止まる
忙しい朝。スーツを着て、靴を履いて、事務所の鍵をポケットに入れた瞬間、不意に立ち止まってしまう日がある。天気はいい。空は青く、鳥の声も聞こえる。それなのに、どうにも気持ちが重い。今日もまた、誰かのために書類を整え、ハンコをもらい、役所へ走る。でも、それが何の意味になるんだろう。そんな疑問が頭をよぎる。司法書士という仕事に誇りがないわけじゃない。でも、あまりに日々が「義務」として積み重なると、自分の存在が誰かの役に立っているのかさえ見えなくなる。
晴れてるのに、心はどしゃぶり
快晴の日に限って気分が落ち込むのはなぜだろう。晴れやかな空を見ると、心の曇りが際立つ。空元気すら出ない朝は、ただ義務感だけが体を動かしている。例えるなら、エンジンオイルの切れた車を無理やり押しているようなもの。しかも誰も見ていないし、誰も手伝ってくれない。道行く人は楽しそうに会話していて、それが妙に遠く感じる。たまには「今日はやめてしまおう」と思っても、独立してしまった今、代わりに動いてくれる人はいない。
予定表が埋まってるだけで安心した気になっていた
スケジュール帳はぎっしりだ。登記の相談、相続の打ち合わせ、金融機関への書類提出――予定があること自体が、自分の存在意義を証明してくれている気がしていた。でも本当にそうだろうか? その予定の一つひとつは、ただのルーチンでしかなく、誰かに必要とされているという実感は、むしろ薄れていくばかり。なんのために頑張ってるのか、自分でもわからなくなる瞬間がある。
忙しさに麻痺して「意味」を見失う日常
何も考えずに「こなす」ことに慣れてしまった。忙しいという言葉が、空虚な日々を隠してくれる。だけど夜、一人で冷めた弁当を食べていると、ふと胸がつかえる。「今日、自分は何かを成し遂げたんだろうか?」そんな問いが浮かんでしまう。麻痺した心では答えも出ず、ただ翌日のタスクを確認して、また寝る。意味を問うことすら、無駄に感じてしまう毎日。
相談を受けても、感謝されるのは別の人
相談者の話を聞き、必要な書類を整え、スムーズに案件が進むように段取りするのが私の仕事。でも最終的に感謝されるのは、不動産屋だったり、金融機関の担当者だったりする。私は裏方。スポットライトが当たることはない。それが司法書士という仕事の本質だと分かってはいる。でも、わかっていても、心がついてこない日もある。
「先生のおかげです」と言われることがない
どれだけ丁寧に仕事をしても、目立たない。むしろトラブルが起きなかったことが、私の手腕の証なのに、それが評価されることはまずない。仕事が終われば「終わって当然」、感謝の言葉どころか、次の用件だけが届く。たまには「助かりました」と一言あるだけで報われるのに、それすらも期待してはいけない世界。そんなとき「これ、誰のためにやってるんだろう」と、また考えてしまう。
書類を整える仕事が“透明”になっていく
相続登記の依頼を受けたときの話。依頼者は親族の死で疲れ切っていて、私の説明をほとんど覚えていなかった。それでも私は、必要な戸籍を集め、遺産分割協議書を作成し、登記を無事に終えた。最後に渡した登記識別情報通知書を見て「これだけ?」とつぶやかれた瞬間、自分の存在が透明になった気がした。どれだけ手間がかかっても、表に見えなければ“無”なのだ。
やりがいって、他人のリアクションで決まるものなのか
やりがいは自己満足でもいいと思っていた。でも他人の反応がゼロだと、自分の中の情熱も静かに冷めていく。これは自己承認の欠如なのか? それとも、ただの疲労なのか?「司法書士って、誰かに必要とされている仕事なのか?」という問いが、自分を追い詰めてくる。何か一つでも反応があれば、それだけで心は持ちこたえられるのに。
誰も褒めてくれない仕事の繰り返し
ミスがないのが当たり前の世界。間違えたら怒られる、でも正しくやっても評価されない。子どもみたいに「よくできました」と言われたいわけじゃないけど、それでも孤独感はある。完璧を求められることに慣れてしまって、たまに人間らしく失敗すると、自分を責めすぎてしまう癖がついた。
エラーもバグも出せない日々
IT業界では「バグが出たら修正すればいい」という文化があると聞く。羨ましくなった。司法書士の仕事には「修正」では済まされないことが多い。登記を間違えたら損害が出る。名前を一文字間違えただけでも訂正に数日かかる。常に緊張していて、精神的な余白がない。誰にも相談できず、全部自分で背負っている。
「できて当たり前」が積み重なると、心がすり減る
ある意味、司法書士は職人だ。地味で、緻密で、正確。だけど、工芸品のように「すごいですね」と言われることはない。むしろ「それくらいやって当然」とされる。積み上げた経験や知識が、称賛の対象にならないのは悲しい。でもそれを誰にも言えず、また淡々と業務に戻る。心のどこかで「もっと評価されたい」と思っている自分がいる。
事務員の前でさえ弱音を吐けない自分がいる
雇っている事務員はまじめで優秀だ。彼女に愚痴をこぼしたら、空気が悪くなる気がしてしまって、結局何も言えない。昼休みに一緒にお弁当を食べながら、心のなかで「今日もしんどいな」と思っていても、表情は変えずに「今週も忙しいね」とだけ言う。情けないけど、それが今の自分の限界なのかもしれない。
意味なんか求めるからしんどくなるんだと、自分に言い聞かせた日
「意味」なんて後からついてくる――そうやって割り切ってしまえれば楽なのに、それができない自分がいる。仕事に意味を求めてしまうから、苦しくなる。だったら何も考えずに、淡々とやっていくしかない。それが“プロ”なのかもしれないと思いながら、でも心のどこかでは「それでいいのか?」と問い続けている。
淡々とこなせる人間になりたいわけじゃない
冷静で、感情に左右されずに仕事ができる人間を理想とされる。でも、私はそんなふうになりたいわけじゃない。感情があるからこそ、相手の気持ちを考えた書類が作れると思っている。機械のようにただ効率よく動くだけの自分なんて、きっと嫌になる。だけど感情があるせいで、こんなにも揺れてしまうのが現実だ。
「情熱が冷めたら終わり」って誰が決めた?
この業界で長くやっていると、「初心を忘れるな」「情熱を持ち続けろ」と言われる。だけど現実はどうだろう。情熱なんて、毎日少しずつ摩耗していく。だからといって終わりではない。静かにでも、地味にでも、続けていること自体が価値なんじゃないかと、最近は思い始めている。
でも、それでも続ける理由はあるのかもしれない
それでも朝、また玄関の前で靴を履く。心が重くても、なんとなく今日も出かける。理由ははっきりしないけれど、やめる理由もない。もしかしたら、それが答えなのかもしれない。やりがいや感謝じゃなくても、誰かの役に立っているかもしれないという「かすかな仮定」だけで、今日も働いている。