結婚式の帰り道が、誰よりもつらい理由

結婚式の帰り道が、誰よりもつらい理由

祝福の拍手と、その裏で揺れる感情

結婚式に出席すると、表面上は笑顔で「おめでとうございます」と拍手を送るけれど、心の中では複雑な感情が渦巻いている。特に自分が独身のまま年齢を重ねていると、その晴れやかな雰囲気にどこか取り残されたような感覚になる。地方で司法書士をしていると、忙しさにかまけて私生活は後回し。そんな自分にふと気づかされるのが、こういう場だったりする。拍手は本物なのに、心はどこかうつむきがちだ。

なぜか笑顔がぎこちなくなる瞬間

新郎新婦の入場シーン、感動的なスピーチ、両親への手紙——会場中が涙しているなか、自分だけが少しだけ別の次元にいるような感覚になる。もちろん祝っている気持ちは本当だ。でも、どこかで「自分は何をしてるんだろう」と問いが浮かぶ。その笑顔が、自分では精一杯のつもりでも、写真を見返すとやっぱりぎこちない。気持ちは祝福しているのに、心の奥には拭いきれないモヤモヤがあるのだ。

「次はあなたの番ね」が一番つらい

披露宴の終盤、親戚や知人からの「次はあなたの番ね」ほど返答に困る言葉はない。たいてい笑って「いや〜まだまだ」とごまかすけれど、内心ではその言葉が鋭く刺さる。仕事が忙しくてとか、タイミングが合わなくてとか、いろいろ理由はあるけれど、本音は「どうしたらいいかわからない」なのだ。しかもそのひとこと、繰り返されるほどに、だんだんと心がすり減っていく。

ご祝儀袋に入れたのは、見栄と少しの劣等感

ご祝儀袋を準備するたび、「この額でいいよな?」と自問自答する。相場に合わせるのが礼儀だとわかっているけど、実は見栄も少し入っている。というのも、既婚者で家庭を持ってる同業者たちが自然に包む金額に対し、こちらは独身で貯金があって当然と思われがちだ。でもその実態は、気を使いすぎて自分が苦しくなるばかり。祝ってるはずなのに、なんでこんなに心がざわつくのか、自分でもよくわからなくなる。

帰り道が長く感じるのは気のせいじゃない

結婚式からの帰り道、家に着くまでの時間が妙に長く感じる。誰かと話すわけでもなく、スマホを見ても通知はなし。何も変わらない日常が待っているだけなのに、やけに胸が重くなる。楽しかったはずの時間の終わりに、寂しさだけがじわじわと押し寄せてくる。それが一番こたえるのだ。

無言の電車と、鳴らないスマホ

帰りの電車の中、祝福ムードに満たされた気分が徐々に抜けていく。車窓をぼーっと見つめていると、今まで考えないようにしていたことが急に押し寄せてくる。「なんで自分は一人なんだろう?」とか、「このままでいいのか?」とか。スマホを開いても通知はなく、LINEも既読スルー。人の幸せを見た直後だけに、その静寂が何倍にも増幅される。

祝われる側と祝う側、その境界線

祝う側と祝われる側、その違いが明確になる瞬間がある。それは、式が終わったあと、みんなが二次会や写真撮影に盛り上がる中、自分だけがそっと帰路につくときだ。なんとなく声をかけられないし、かけるタイミングも見つからない。そういうとき、「あ、自分はあくまで脇役なんだな」と感じる。そして脇役としての役割すら、最近では少し重く感じるようになってしまった。

地方の独身司法書士という生き物

地元に根を張って司法書士をしていると、仕事はそれなりに来る。でも、出会いなんてものはまるでない。紹介もない、街コンに行っても場違い、アプリなんて使い方がよくわからない。いつの間にか、「一人が楽」という言い訳が板についてしまった。でも本当にそれでよかったのか?結婚式の帰り道に、いつもその問いが頭をよぎる。

忙しいのに、寂しさだけは手元に残る

平日は登記や裁判所の手続き、土日もたまに相談対応。予定は埋まってるのに、気持ちは空っぽ。なぜか「時間がない」は「心が満たされている」とは違うらしい。人のために一生懸命働いているはずなのに、自分のための何かがどんどん抜け落ちていく。たぶん、結婚式の帰りがつらいのは、この「心の欠落」が浮き彫りになるからだ。

モテないとか以前に、出会いがないという現実

よく「モテなさそう」と言われるが、それ以前に出会っていないのだ。仕事上、女性と接する機会は限られ、しかもこちらは基本的に事務的対応。その上、恋愛に不器用な自分が、何かを始める気力を出すには相当な勇気がいる。気づけば「いい人がいたらね」なんて言い訳をしながら、月日が過ぎてしまった。結婚式のたびにその時間の重みを感じる。

「幸せそうでよかったね」が言えない夜

式から帰ってきて、スーツを脱いだあと、鏡を見る。その自分の顔がなんとも言えない。疲れてるのか、落ち込んでるのか、自分でもよくわからない。心から「幸せそうでよかったね」と言いたいのに、それを言うことで余計に自分の中の何かが空洞になるような気がして、言葉が出てこないのだ。

心から祝っているつもりなのに、どこかで拗ねてる

「祝う気持ちはある。でも自分の立ち位置がつらい。」そんな矛盾を抱えたまま、何事もなかったように振る舞う。けれどどこかで、「なんで自分だけこうなんだ」と不満を持っている自分もいる。それを認めたくなくて、さらに疲れる。祝いの場が、気づけば自己否定の引き金になっていることもある。

つい、SNSの投稿は見ないようにしてしまう

式の翌日、InstagramやFacebookにはきらびやかな写真が並ぶ。幸せいっぱいの姿に、自然と目をそらしてしまう。見たくないわけじゃないけど、見たあとに来る虚しさがわかっているから。SNSが悪いわけじゃない。でも、タイムラインが「自分にはないもの」のショーケースになる瞬間が、やっぱり苦しい。

笑顔の写真が苦手になったのはいつからか

昔は写真を撮るのが好きだった。でも最近は、自分の写っている笑顔の写真を見るのが苦手になってきた。どこか嘘っぽく感じるし、「本当に笑ってるのか?」と自問してしまう。結婚式の写真に映る自分の顔も、なんだか他人事みたいに見える。それに気づいた瞬間、何かがすーっと冷めていくのがわかる。

共感してくれる人がひとりでもいたら

この文章を読んで、「わかる」と思ってくれる人がひとりでもいれば、それだけで救われる気がする。司法書士という仕事は、人の節目に関わる機会が多い。その分、他人の人生に敏感になって、自分とのギャップに苦しむこともある。でも、そういう苦しみを言葉にして、共有することで少し楽になれる。ひとりじゃないと思えるだけで、前を向けると信じたい。

司法書士としての悩みと、個人の寂しさ

この職業をしていると、誇りもある。でも、どうしても埋まらない部分もある。独身であること、孤独であること、誰にも弱音を吐けないこと。それでも、同じように頑張っている人たちがいる。だからこそ、こうして言葉にしてみる。それが誰かの心に届くなら、自分のこの「帰り道のつらさ」も、意味のあるものに変わるかもしれない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。