本音を言えば、もう限界だった

本音を言えば、もう限界だった

静かに崩れていった日常

気づけば、もう何年も無理をしていたのかもしれません。最初は「忙しいのはありがたいこと」と思って、必死で仕事を詰め込んできたけれど、いつの間にか感覚が麻痺して、どこか壊れていたんでしょうね。昼ご飯を食べる時間も削り、土日も「急ぎの案件」で埋まっていく。そんな日々に疑問を感じなくなった頃から、心のどこかで「もう限界かも」と薄々思っていたのかもしれません。目に見える破綻はないけれど、心の中では静かに崩れていっていたのだと思います。

「なんとかなる」と思っていた毎日

この仕事を始めたばかりの頃は、「今が一番大変な時期なんだろう」と思い込んでいました。どんなに疲れていても、「来週になれば落ち着くはず」と自分に言い聞かせて踏ん張っていました。でも実際は、その“来週”なんて永遠に来ない。結局、毎週がピークみたいな働き方になってしまった。なのに、どこかで「自分が倒れるまでは大丈夫」と過信していたんです。実際に倒れたことがないからこそ、自分の限界を見誤っていたのだと思います。

忙しさに慣れすぎて、違和感を無視した

朝から晩まで仕事をして、夜遅くに帰ってきて食事も適当。その生活に違和感を覚えなくなったのは危険信号でした。本来なら「おかしい」と思うべきことが日常になってしまったんです。疲れていても「これくらい普通」と自分に言い聞かせる癖がついてしまって、体の不調や心のざわつきすら無視してしまう。気づいたら、書類のミスが増えたり、説明が噛み合わなくなったりしていた。だけど、「疲れているから」ではなく、「自分の能力が落ちた」と思い込んで、ますます自分を責めてしまう悪循環に陥っていました。

朝の目覚ましが怖くなる瞬間

一番つらかったのは、朝の目覚ましが鳴ったときの絶望感です。「また今日も始まってしまった」と思うようになったんです。かつては「今日こそは○○を終わらせよう」と前向きに起きていたのに、最近はベッドの中で「なんとか一日をやり過ごそう」と考えるようになってしまった。休みの日も心から休めず、携帯に着信があるたびにビクッとする。目覚ましの音は、もう仕事を告げる警告のようにしか聞こえませんでした。

積み重なる疲労と孤独

疲れはただの肉体的なものじゃなかったんです。むしろ精神的な疲れが大きかった。仕事のことを相談できる人がいない。友人とも疎遠になって、気づけば誰にも弱音を吐けない状態になっていました。人の話はよく聞くけれど、自分の話をちゃんと聞いてくれる人がいない。それが、想像以上に心をすり減らす原因だったんです。

話し相手がいないまま過ぎていく日々

朝から晩まで誰かと関わっているようで、実は誰とも本音で話していないことに気づいたのは、ある休日の午後でした。テレビをつけても、スマホを眺めても、誰にも連絡しようという気になれない。気軽に電話できる相手すらいない現実に、ふと涙が出ました。会話って、ただ声を交わすことじゃなくて、心を交わすことなんだとそのとき思い知りました。

事務員との会話だけが唯一の救い

うちの事務員は、とてもよく働いてくれる。正直、彼女がいなかったらこの事務所はとっくに回らなくなっていたと思います。最近は、午前中に交わす何気ない「おはようございます」のひと言すら、ありがたく感じるようになりました。たわいない会話でも、誰かとつながっていると感じられるのは、本当に救いです。彼女の存在だけが、今の僕を人間らしく保ってくれているのかもしれません。

「限界」に気づいたきっかけ

それでも、毎日なんとか動いていたんです。でもある日、不意に出てしまった「もう無理かも」という言葉が、自分自身でも衝撃でした。そんなことを思っているなんて、自覚していなかったから。でも、口に出してしまったことで、ようやく自分の状態に気づけた気がしました。

ふと漏れた「もう無理かも」

その日も普通に仕事をしていたつもりでした。けれど、登記のミスを一つ見つけた瞬間、「ああ、もう無理かもな」と心の声が漏れてしまったんです。誰かに聞かれたわけじゃないけど、その瞬間の静けさがやけに重くて、自分で自分の限界を突きつけられたような気がしました。無理していることに慣れすぎて、自分の感情を置き去りにしていたことに、ようやく気づいたんです。

依頼人の何気ない一言が胸に刺さる

「先生も大変ですね、体に気をつけてくださいよ」――依頼人が何気なく言ったその言葉に、不覚にもぐっときてしまいました。誰も僕の体調なんて気にしていないと思っていたから。仕事は感謝されることもあるけれど、こちらがどれだけすり減っているかなんて、ほとんど誰も気づいてくれない。だからこそ、そのひと言が妙に沁みました。限界に近づいていた心が、その言葉で少しだけほどけたような気がしました。

笑顔を作るのにエネルギーが要る

以前は自然に笑えていたのに、今は笑顔をつくるのがしんどい。口角を上げることすら、力を使う。依頼人の前では明るくしていないといけない、というプレッシャーもある。でも、心がついてこない。まるで感情と表情が別の人間になってしまったような感覚。笑っている自分に嘘を感じながら、それでも笑わないと「この人、感じ悪いな」と思われるんじゃないかと怖くなる。そうやって自分を押し殺していくのが、本当にしんどい。

趣味もなくなり、息抜きの方法がわからない

昔は映画を観るのが好きだったし、たまにはドライブもしていた。でも今は、その気力すら湧いてこない。せっかくの休日も、何もせずに終わってしまう。気づけば、趣味ってなんだったっけ?と自分に問いかける始末。息抜きの方法がわからないというのは、心のSOSだと思います。リフレッシュする手段がなくなったら、もう回復の手段もなくなるんですよね。

「楽しむ」ってなんだっけ?

仕事以外で「楽しい」と思える時間が、ここ数年ほとんど記憶にありません。何かをやってみても、頭の片隅には「このあとあの案件やらないと」がずっと残っている。心がどこにも休まらない。「楽しむ」という感覚自体が、どんどん遠くなっていくのがわかる。まるで、自分がロボットにでもなってしまったような錯覚。人としての感覚を取り戻したいのに、どうしたらいいのかさえ思い出せないのです。

自分のための時間が消えていく感覚

一日24時間のうち、自分のための時間がほとんどない。寝る時間すら削って仕事をして、食事中もスマホで連絡を返す。気づけば、自分の人生なのに、誰かのためだけに使っている感覚に陥ることがあります。人の役に立ちたい気持ちはあるけれど、それだけじゃ自分が空っぽになってしまう。もっと自分を大事にしなきゃいけないのに、それがなかなかできない。そんな自分にも、また自己嫌悪してしまうんですよね。

それでも続ける理由

こんなにしんどくて、限界を感じていても、なぜか辞めるという選択肢は浮かばない。それは、たぶんこの仕事にしかない「救い」や「やりがい」が、わずかでもあるからなのかもしれません。自分にとっての「意味」を見失いたくない一心で、今日も事務所の鍵を開けています。

依頼人の「ありがとう」に救われる

疲れきっていたある日、相続の手続きを終えた高齢の女性が、深々と頭を下げて「本当に助かりました」と言ってくれた瞬間、涙が出そうになりました。人の役に立っているという実感。それが、こんなにも心を満たすんだと改めて感じた出来事でした。毎日はつらいけれど、こういう一瞬のやり取りが、僕を司法書士としてここに踏みとどまらせているんだと思います。

自分が役に立っているという実感

自信を失いかけていたとき、昔担当した依頼人から手紙が届きました。「あなたのおかげで今も前向きに暮らせています」と書かれていて、思わずその手紙を握りしめて泣いてしまいました。誰かの人生の節目に関わり、少しでも助けになれているなら、自分の存在にも意味があると思える。そういう小さな積み重ねが、自分を支えてくれているんだと、実感しています。

ほんの一言が支えになることもある

「先生、頑張ってくださいね」と言われただけでも、なぜか少し救われた気持ちになることがあります。日常の中では埋もれがちなそのひと言が、崩れかけた心の支えになる。人って、ほんの少しの優しさで生き延びられるんだな、とつくづく思います。自分も誰かにとって、そんな存在でありたい。そう願うからこそ、もう少しだけ頑張ろうと、今日も机に向かっています。

事務所を畳む勇気もない現実

本音を言えば、もう十分頑張った気もします。でも、じゃあ事務所を閉めて、何をするのかと考えると…何も思いつかない。司法書士としてしか生きてこなかった自分には、他の道が見えない。年齢的にも再出発は簡単じゃないし、何より今のお客さんたちを見捨てるようで怖い。辞めたくても辞められない現実が、背中に重くのしかかっています。

生活のため、責任のため

家賃、光熱費、給料、税金。現実的な数字が目の前に並ぶたび、「辞めたい」という気持ちは引っ込んでいく。この仕事は生活の糧であり、社会的責任も背負っている。誰かに頼られている以上、自分一人の感情だけで投げ出すことはできない。責任という言葉の重さが、僕をこの場所に留めているのです。

本当はもう少し、休みたかっただけ

辞めたいわけじゃない。ただ、少しだけ、休みたかった。心がすり減る前に、一呼吸おきたかった。それが叶わなかったから、「もう限界」と感じたのかもしれません。本当は、この仕事が嫌いなわけじゃない。ただ、もう少し自分にも優しくできる働き方がしたかった。それが、僕の本音です。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。