「犬の取り合い」で始まった修羅場
この仕事をしていると、遺産分割の現場で感情がぶつかり合うのは日常茶飯事だけど、あの日はちょっと違った。相続財産の確認と分配の話を始めて数分後、話題は急に「一匹の犬」に集中していった。正直なところ、ここまで揉めるとは思っていなかった。まさか犬で家族がバラバラになるとは。司法書士として、ただ静かにその場に立ち会うしかなかった。
普通の遺産分割協議だと思っていた
最初はごくありふれた案件だった。被相続人は高齢の女性。ご家族は、長男、長女、次男の三人。預貯金も不動産も明確で、特に揉める要素は見当たらなかった。まあ、時間もかからないだろうと、事務員にも「午後イチには終わるよ」なんて言ってたくらいだ。でも、それが甘かった。
「誰が犬を引き取るか」で空気が一変
分割案を一通り確認して、じゃあ署名に進みましょうかと声をかけたとき、長女がぽつりと「で、ポチはどうするの?」と切り出した。場が一瞬止まったように静まり返り、それまで黙っていた次男が「俺が世話してたんだから俺が引き取る」と言えば、長男が「いや、あいつは母さんの希望で俺が見るって言ってた」と反論。そこからは泥沼だった。
ペットは“相続財産”なのか
民法上、ペットは「物」だとされている。つまり、遺産分割の対象になる。しかし、実際の現場では“モノ”として扱うなんて到底できない。遺族にとっては、亡くなった人の思い出であり、感情のよりどころでもある。法の理屈と心の感覚、そのズレが今回の争いをより複雑にしていた。
民法上の位置づけと現実の感情のギャップ
「ペットは財産ですから」と一言で片付けるのは簡単だけど、それが現実的に意味を持たないことをこの案件で痛感した。冷静に説明すればするほど、相手の感情はヒートアップしていく。法律家の言葉が、時に人の心を逆なですることを実感した。
「物」として扱われることへの違和感
ペットは家族。そう思っている人は多いし、私自身もそうだ。でも法律上はただの「動産」。そのギャップが今回のような混乱を生む。登記や相続の世界では「形式」が全てだけど、人の心はそう簡単に整理できるものじゃない。
家族にとっては「唯一のつながり」だった
聞けば、母親が亡くなる直前までこの犬をとても可愛がっていたそうだ。そして、子どもたちはそれぞれ母親との関係が薄れていた中で、この犬が母との“最後の思い出”になっていたらしい。要するに、犬を誰が引き取るかは、母との絆を誰が引き継ぐかという意味合いになってしまったんだ。
誰が面倒を見るか?感情論と現実論の交差点
「自分が一番大事にできる」「自分が一緒にいた時間が長かった」そんな主張が飛び交う中、実際に犬の世話をする覚悟があるのかという点が置き去りになっていた。ここでもう一度問いたい。「本当に犬のことを考えているのか?」と。感情と現実が交錯する場で、冷静に話を戻すのは至難の業だった。
司法書士として、黙って立ち会うしかなかった
この手の感情的なもつれには、基本的に介入しない。…というか、できない。相続人同士が叫び合い、感情をぶつける中で、こちらは無表情で座っているしかない。たまに事務員が小声で「怖いですね…」と囁いてくるけど、それにうなずくことすら憚られる空気感。
言いたくても言えない「それ、遺産じゃない」
心の中では「犬は遺産とは別に話してくれ」と何度も叫びたかった。でも、そこに踏み込んだ途端、司法書士の立場が崩れる。中立でいること、それがこの職業のルール。正論を言ったって、それが火に油を注ぐだけなら言わない方がいい。そんなジレンマがいつもある。
泣き叫ぶ兄妹、険悪になる空気…
最終的に長女が泣き出し、長男は立ち上がって大声を出し、次男はふてくされて部屋を出ていった。事務員は固まったまま動かない。場の収拾はつかず、協議は中断。結局、後日再調整という形になったけど、あの空気の悪さは、今でも忘れられない。
事務員が固まってしまった瞬間
普段は明るくて物怖じしないうちの事務員も、この時ばかりは終始無言。あとで聞いたら、「犬であんなに怒鳴り合うとは思わなかった」と震えていた。正直、こちらも同じ気持ちだった。相続って、本当に人間関係の縮図なんだと、改めて感じた瞬間だった。
この経験から感じた“ペット相続”の難しさ
金銭的な価値よりも、感情的な価値の方が重いとき、相続は一気に難しくなる。ペットはその最たる例。金ではなく、「思い出」や「絆」だからこそ、誰にも譲りたくない。でも、それは法律の外にあるものだ。
書類じゃ割り切れない「感情」の重さ
司法書士として、どれだけ正確な書類を作っても、人の気持ちは整理できない。ペットのような存在を前にすると、形式主義の限界を思い知らされる。人間って、そんなに簡単じゃない。
家族関係のほころびが表に出る瞬間
争いの根底には、実は昔からの兄妹間のわだかまりや、母親との関係の差があったんだと思う。犬はその象徴だっただけ。ペットをきっかけに、家族の本音が噴き出す。司法書士の仕事は、その火種のそばでじっと座ってるようなものだ。
これからの備えとしてできること
こんなトラブルを避けるためには、やっぱり「事前の備え」が大切だと痛感する。特にペットのような“感情財産”については、事前の話し合いや文書化が不可欠だ。悲しい思いをしないためにこそ、生前からの準備をおすすめしたい。
ペットに関する意思表示の工夫
例えば、遺言書に「ポチは長女に引き取ってもらいたい」などと記しておくだけでも、だいぶ違う。法的拘束力があるかはともかく、被相続人の意思として家族に伝わる。それだけで揉め事が防げることもある。
遺言書や付言事項で“家族の希望”を残す
遺言書に付け加える「付言事項」は、法的には効力がないけれど、気持ちはしっかり伝わる。これを活用すれば、家族の誰に何を託したいか、なぜそう思うのかを遺せる。感情の火種を事前に鎮火しておく大事な一歩だ。
司法書士の役割は、調整より「設計」かもしれない
その場の調整は限界がある。司法書士として本当にできるのは、「揉めないようにしておく」こと。つまり、事前の設計こそが一番の仕事なんじゃないかと、この案件を通じてしみじみ思った。もう犬で争う姿なんて、二度と見たくない。