「この資料、後で見ておきますね」の呪い——放置されるデータと期待のすれ違い

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「この資料、後で見ておきますね」の呪い——放置されるデータと期待のすれ違い

  1. 「後で見ておきますね」――この一言に感じる違和感
    1. 言葉は丁寧でも、行動は伴わないことが多い
    2. 善意か社交辞令か、判断に困る毎日
  2. なぜ“後で見る”と言われるとモヤモヤするのか
    1. 忙しさはわかるけれど、こちらも時間を使ってる
    2. 期待してしまう自分が悪いのか
  3. 実際の現場では、資料を読んでもらえないとどうなるか
    1. 相続登記の流れが伝わっていないケース
    2. 「聞いてませんでした」と言われる虚無感
      1. メールで送った資料が無視されたパターン
      2. 封筒を開けずに置かれていた現場
  4. 資料を読んでもらうために工夫したこと
    1. 要点だけの「3行メモ」を作るようにした
    2. 説明文を音声で送ったこともある
      1. 音声の方が聞いてもらえる?という幻想
      2. 結局「後で聞きますね」で終わる現実
  5. “読まれない前提”で考えるようになった
    1. 資料に頼るのではなく、口頭説明にシフト
    2. それでも「資料送っておいてください」と言われるジレンマ
  6. 「後で見ておきますね」に期待しないための心構え
    1. 言われた瞬間に「あ、これは見ないな」と思う癖
    2. 見てもらえたらラッキーくらいで構える
  7. 事務所の中でも同じセリフが飛び交う
    1. 事務員さんとのすれ違いも、実はここにあった
    2. 「あとで確認しておきます」→1週間経過
  8. じゃあ、どうすれば伝わるのか?
    1. 伝え方よりも、受け手の性格を見極める
    2. 「見なくてもわかる設計」にするしかない
  9. “放置される資料”に意味はあるのか
    1. 読まれないとわかっていても、作るべきなのか
    2. それでもやっぱり、作らないと気が済まない
  10. 結論:資料は“読まれない前提”で組み立てる
    1. 伝わらないものに時間をかけすぎない
    2. 「伝える努力」より「伝わる工夫」を優先

「後で見ておきますね」――この一言に感じる違和感

言葉は丁寧でも、行動は伴わないことが多い

「この資料、後で見ておきますね」——この一言、皆さんも一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。相手は笑顔でそう言います。こちらも「ありがとうございます」と返すしかない。でもその瞬間、どこか心の奥に小さな不安が生まれます。「ああ、これ絶対見ないやつだな」と。経験上、こう言われた資料が実際に読まれる確率は正直かなり低いです。口調が丁寧であるほど、その“読まれなさ”に拍車がかかるような気すらします。

善意か社交辞令か、判断に困る毎日

本当に忙しいだけなのか、それとも気を遣ってくれているのか、それとも単に面倒なのか——。この言葉の背景にある真意を探るのは難しいです。私自身、司法書士としてたくさんのクライアントと接してきましたが、このセリフはだいたい“その場をやり過ごすための決まり文句”であることが多い。分かっていても、やっぱりちょっと傷つくんですよね。

なぜ“後で見る”と言われるとモヤモヤするのか

感情的な話ではありますが、頑張って作った資料を「後で見ます」と言われると、その瞬間に相手との温度差を感じてしまいます。こちらは丁寧に作り込んだつもりでも、その努力が軽んじられているような気がしてしまうのです。

忙しさはわかるけれど、こちらも時間を使ってる

相手が忙しいのはわかります。現代社会ではみんなが忙しい。でも、こちらだって時間を使っているわけです。しかも、専門的な内容をわかりやすく噛み砕いて伝える努力までして。それなのに「後で見ておきますね」の一言で済まされると、やっぱり釈然としません。

期待してしまう自分が悪いのか

毎回「どうせ見ないでしょ」と割り切ればいいのかもしれません。でも、それができたら苦労はしません。どうしても“少しは見てもらえるかも”という期待をしてしまうのです。これが自分の甘さなのか、仕事に誠実であろうとする気持ちなのか、最近はもうよく分からなくなってきました。

実際の現場では、資料を読んでもらえないとどうなるか

資料が読まれないことで起きる問題は、案外深刻です。特に司法書士の業務では、事前説明が欠けると手続きの遅延やトラブルの原因になります。

相続登記の流れが伝わっていないケース

例えば相続登記の手続き。私はできる限り、図解入りで丁寧に資料を作ってお渡ししています。それでも「どう進めればいいかわからない」と言われることがある。よくよく話を聞くと、やっぱり資料を読んでいない。「後で読みます」と言っていた人に限って、手続きがスムーズに進まないことが多いんです。

「聞いてませんでした」と言われる虚無感

一番しんどいのは、「そんなの聞いてませんでした」と言われるとき。ちゃんと書類に書いてあるし、説明も添えたのに。もう「はいはい、こっちが悪いんですね」としか言いようがなくなってくる。

メールで送った資料が無視されたパターン

ある依頼者にPDFで丁寧な手続きガイドを送ったんです。メールの文面でも「大事な内容なので、必ず目を通してください」と書いた。それでも一週間後に「まだ何をすればいいか分かりません」と電話が来ました。思わず天を仰ぎましたよ。

封筒を開けずに置かれていた現場

郵送で送った書類が、封すら切られずに机の上にそのまま放置されていたこともあります。開けてすらもらえないなんて、さすがに悲しくなります。

資料を読んでもらうために工夫したこと

何度も悔しい思いをしてきたので、自分なりに試行錯誤は重ねてきました。「どうしたら読んでもらえるか」を考えるのが、いつしか習慣のようになっていました。

要点だけの「3行メモ」を作るようにした

ページ数が多いと読まれない。それなら、と思って最近はA4の上部に「とにかくここだけ読んで!」という3行メモを添えるようにしました。要点をギュッと絞って、最初の3秒で伝わるようにするんです。ちょっとでも読まれる可能性を上げるための苦肉の策です。

説明文を音声で送ったこともある

資料を読まないなら、耳で聞いてもらおうと思い立ち、スマホで簡単な音声ガイドを録音して送ったこともあります。話しながら資料を見てください、ってやつです。

音声の方が聞いてもらえる?という幻想

しかし現実は厳しかった。「音声の方が楽かなと思って」と言ってくれたのは最初だけ。結局は「後で聞きますね」と言われて、未再生のまま放置されるのがオチでした。

結局「後で聞きますね」で終わる現実

「後で見る」が「後で聞く」に変わっただけで、状況はほとんど改善されなかったんですよね。努力の方向が間違っていたのかもしれません。

“読まれない前提”で考えるようになった

いくら工夫しても読まれない。だったら最初から“読まれない前提”で動こうと、考え方を切り替えるようになりました。無駄な期待を抱かないようにすることで、精神的なダメージも減りました。

資料に頼るのではなく、口頭説明にシフト

最近では、資料は「補足」と割り切り、できるだけ対面や電話で説明するようにしています。その場でリアクションが返ってくるので、反応を見ながら調整できるのがありがたい。

それでも「資料送っておいてください」と言われるジレンマ

ただ、説明が終わったあとに「一応、資料も送ってもらえますか」と言われると、また“あの地獄”が蘇ります。ああ、また読まれない資料を作るのか、と。

「後で見ておきますね」に期待しないための心構え

この言葉を聞いたときにショックを受けないために、自分の中でルールを決めるようになりました。感情を揺らされないための自己防衛です。

言われた瞬間に「あ、これは見ないな」と思う癖

「後で見ておきますね」と言われたら、自動的に“これは読まれないやつだ”と認識するようにしています。もちろん諦めではありません。無駄な期待を抱かないことが、長くやっていくコツだと悟ったのです。

見てもらえたらラッキーくらいで構える

逆に、読んでもらえたときは「なんとありがたい…!」と感動すらします。期待値を下げると、ちょっとしたことでも嬉しくなるんですよね。

事務所の中でも同じセリフが飛び交う

これは依頼者だけの話ではなく、事務所の中でも起こります。身内だからこそ、なおさらモヤモヤするのです。

事務員さんとのすれ違いも、実はここにあった

「これ、後で確認してもらえますか?」とお願いして、「はい、後で見ておきます」と返ってくる。が、3日後に「あ、すみません。見てなかったです」と言われて脱力。結局、自分でやり直すことになる。

「あとで確認しておきます」→1週間経過

まさかの“1週間経過後に未読”というパターンもあります。もうそれって「見ない」ってことと同義じゃないですか、と心の中で叫びたくなります。

じゃあ、どうすれば伝わるのか?

どうせ見てもらえないなら、どう伝えるかを再設計する必要があります。伝え方の工夫よりも、受け手に合わせる発想が大事だと思うようになりました。

伝え方よりも、受け手の性格を見極める

文章が得意な人にはPDFを。口頭が好きな人には電話を。とにかく「その人に合わせる」。それがいちばん効くんですよね。労力はかかるけど、伝わらないストレスよりはマシです。

「見なくてもわかる設計」にするしかない

結論だけ先に言っておいて、あとは「あとから補足で資料見てください」方式にする。これが最も現実的です。資料はあくまで“補足”。主役にしないほうが、心が平和でいられます。

“放置される資料”に意味はあるのか

結局、読まれない資料を作る意味はあるのか。最近、よく自問しています。徒労感もありますが、それでもやめられないんですよね。

読まれないとわかっていても、作るべきなのか

「どうせ読まれない」とわかっていても、作らないと気が済まない。プロとしての矜持とか、自己満足とか、いろいろ混ざった感情があります。でもそれがモチベーションでもある気がするんです。

それでもやっぱり、作らないと気が済まない

たとえ誰も読んでなくても、「自分はやるべきことをやった」と思えるから。資料作成は、自分自身への納得のための行為なのかもしれません。

結論:資料は“読まれない前提”で組み立てる

もう、読まれることを前提にして作らない。これが自分なりに辿り着いた結論です。期待をしないことで、無駄に傷つかなくて済むし、次の仕事にも前向きになれる気がします。

伝わらないものに時間をかけすぎない

資料に命をかけすぎない。ある程度の力で手早く作る。それでいい。どうせ伝わらないなら、他の方法に力を注いだ方がよっぽど有益だと思います。

「伝える努力」より「伝わる工夫」を優先

大切なのは、自己満足の努力ではなく、相手に伝わる工夫。そのためには、相手の特性を理解し、媒体を選び、伝え方を変えることが必要なのだと、日々感じています。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。

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