初めて「ありがとう」と言われた日のこと
司法書士という仕事は、感謝される機会が少ない職業だと思っていた。相続や登記、成年後見など、日常生活とは少し離れた場面で登場するからか、どうしても「お世話になるのは面倒な時」という印象が強いのかもしれない。だからこそ、初めて依頼人から真正面から「ありがとう」と言われたあの日のことは、今でもはっきりと覚えている。何気ない一言だったが、それが心にじんわりと染みた。苦労の多いこの仕事を、もう少しだけ頑張ろうかと思えた瞬間だった。
依頼人の言葉が心に残る日
その日も、いつも通り事務所で書類を整理しながら登記申請の準備をしていた。ちょうど相続登記の依頼を受けていた方が来所された。お母様を亡くされたばかりの50代女性で、言葉少なに必要な書類を揃えていた。こちらも淡々と進めていたのだが、手続きが完了して書類をお渡ししたとき、彼女がぽつりと「本当に助かりました、ありがとうございました」と言った。それが、なんとも言えない響きを持っていた。
事務所を開いて数年、初めての感謝の言葉
独立して5年目くらいだったと思う。それまでにも「助かりました」とか「すみませんね」と言われることはあったが、あの「ありがとう」は、妙に胸に刺さった。言葉に気持ちが乗っていたのか、あるいはこちらが疲れていたのか。そのときはわからなかったが、「こんなに救われるんだな」と感じた。たった一言で気持ちが軽くなるのは、不思議な感覚だった。
「たった一言」に救われた気持ち
その日は、他にもいくつか仕事が詰まっていたが、不思議と疲れを感じなかった。電車で通勤していた頃なら、きっと帰りの車内でぼんやりと「今日もしんどかったな」とため息をついていたと思う。でもその日は違った。少し鼻歌が出るくらいには、気持ちが穏やかだった。感謝の言葉って、こんなにも力を持っているのかと驚いた。
日々の業務の中で埋もれていく感情
司法書士の仕事は、ルーティンのように進む部分も多い。特に登記関係は、形式と正確さがすべてで、感情の入り込む余地があまりない。だからこそ、どこか自分が「人間扱い」されていないような感覚に陥ることがある。感情を押し殺して作業をこなすうちに、「何のためにやってるんだっけ?」と思う日もある。
感謝されることが当然ではない世界
「士業なんだから、ちゃんとしてて当然でしょ」という空気がある。こちらがどれだけ丁寧に説明しても、「そんなの知らないし」「早くしてよ」と言われることもある。依頼人にとっては不安な状況だから仕方がない。だが、こっちも人間だ。たまには「頑張ってますね」とか、そういう言葉があれば、と思ってしまう。
「やって当たり前」という見えない圧力
依頼人からのプレッシャーだけでなく、周囲からも「間違えたら終わり」「信用第一」「常に冷静に」といった無言の圧力がある。日々それに耐えながら、誰にも愚痴を言えずにいると、気づけば感情を切り離して業務を回す機械のようになってしまう。だからこそ、「ありがとう」の一言が、心の奥に響いたのかもしれない。
小さな一言がもたらした変化
その「ありがとう」以来、私は少しだけ仕事に向き合う気持ちが変わった。誰かの役に立てたんだという実感が、次の一歩を支える力になるのだと、ようやくわかった気がする。司法書士という職業の意味を、もう一度問い直すきっかけにもなった。
「ありがとう」が持つ重み
感謝の言葉は、何かを劇的に変えるわけではない。でも、こちらの存在を肯定してくれるような安心感がある。無力感に押しつぶされそうなとき、自分の仕事に意味を見出せないとき、たった一言の「ありがとう」が、沈んだ心を引き上げてくれる。それは、他の何よりも強い。
言葉の力を思い知らされた瞬間
言葉なんて形のないものだし、すぐに消えてしまう。でも、人の心に残る言葉は、いつまでも消えない。その日言われた「ありがとう」は、今でも思い出せるくらい、鮮明に残っている。口調も、タイミングも、表情も。こちらが思っている以上に、言葉には力があるんだと、強く感じた。
それまでの苦労が少し報われた気がした
どんなにしんどい日々も、「意味があったんだ」と思えるだけで救われる。正直、手続き自体はそれほど難しいものではなかった。けれど、その人にとっては人生の節目であり、思いのこもった時間だったのだ。その役に立てたという事実が、自分の存在を少しだけ誇らしく思わせてくれた。
仕事観が少しだけ変わった
それまでは、「仕事=こなすもの」という意識が強かった。だが、それ以降、「仕事=誰かの力になること」と考えるようになった。業務の効率や精度はもちろん大切だが、もう少し人間らしく向き合ってもいいのではないか。そう思うようになった。
義務感から共感へと変わる契機
感情を排除していたつもりが、実はそれが一番自分を苦しめていたのかもしれない。冷静であろうとするあまり、自分自身の気持ちを閉じ込めていた。でも、感謝されたことで「誰かとつながれた」と感じられた。それは、数字や実績では得られない、実に人間らしい手応えだった。
この仕事を続ける意味を考える
時々、「この仕事、本当に自分に向いてるんだろうか?」と思うことがある。責任の重さ、孤独、報われなさ。そのすべてに押しつぶされそうになる日もある。でも、あの一言が心のどこかに残っている限り、完全に折れることはない。小さな灯火のように、自分を支えてくれている。
やめたいと思う瞬間と、踏みとどまる理由
書類の山に埋もれ、電話対応に追われ、思うように進まない案件を抱えた日には、「もう無理だ」と思う。でも、それでも踏みとどまっているのは、誰かの役に立てるという実感を味わえたからだ。全員に感謝されなくてもいい。ただ、たまに心からの「ありがとう」が聞ければ、それでいいのかもしれない。
収入、責任、孤独、そして…
独立してみて初めてわかったことがたくさんある。収入は不安定だし、責任は重いし、孤独感は増すばかり。でも、それでもこの仕事を続けるのは、きっと「誰かの力になれる場面がある」からだと思う。そのことを思い出させてくれた「あの日のありがとう」に、今でも感謝している。
「誰かの役に立てた」という唯一の手応え
成果が見えづらい仕事でも、誰かの心を支えられたなら、それが最大の報酬になる。資格や経験だけでは得られない「生きててよかった」と思える瞬間。それを味わえたことが、何よりの救いだった。これから先も、そんな瞬間を糧に、地道に続けていこうと思う。
感謝の言葉が、静かなエネルギーになる
日々の中で何度も気持ちが折れかける。でも、そのたびに「あの一言」を思い出す。言葉って不思議だ。静かだけど、ずっと心の中で力をくれる。その力で、私は今日も、明日も、たぶんこれからも、この仕事を続けていくんだろう。