気がつけば自分のことはいつも後回し
気づいたときには、朝起きてから寝るまで、他人のことばかり考えている日々になっていた。相談に来る依頼人の話を聞いて、事務員のフォローをして、書類の山をさばいて……ふと気づけば昼食も取らずに一日が終わることもある。昔は「それが仕事だ」と思っていた。でも最近は、ふとした拍子に「俺、何のために働いてるんだっけ?」と呟いてしまう。自分の気持ちや欲求は、まるで誰かの荷物の下に押し潰されてしまったように見えなくなっていた。
人のために働いているようで自分が消えていく
司法書士という仕事柄、人の人生の節目に関わることが多い。相続や登記、会社設立や離婚など、誰かの「大事なとき」に立ち会う。それはやりがいもあるし、感謝されることもある。でも、その「人のため」が重なりすぎると、自分の生活がどんどん犠牲になっていく。ある日、事務所で倒れそうになって、思った。「自分がいなくなったら、この人たちは誰に相談するんだろう?」──いや、その前に、自分自身が自分の声を聞いていなかった。
事務員の相談優先 クライアントの急ぎ対応 そして夜
朝、事務員から「この件、ちょっと聞いてもいいですか」と声をかけられる。その時点で自分がしようとしていた作業はストップ。電話が鳴れば、すぐに出る。急ぎの登記依頼が入れば、昼休みも返上して対応する。そんなことを繰り返して、気づいたら夜。スーパーも閉まりかけ、夕飯はコンビニのおにぎり。もう何年も、自分の予定を「先に入れる」なんてしていなかった。
後回しにしたのは健康も心も全部だった
毎年の健康診断は「忙しいから今年はいいか」でスルー。歯医者の予約も「キャンセルで」と電話をかける。趣味だったキャッチボールも、グローブに埃がかぶって久しい。後回しにしたのは、仕事じゃないから、という理由だったけれど、よく考えればその全部が「自分自身」を大事にする行動だった。心と身体が悲鳴を上げるまで、ようやくそのことに気づけなかった自分が情けなかった。
昔はもう少し余裕があったはず
開業して数年は、まだ時間にも心にも少し余裕があった。趣味の草野球にも顔を出せたし、休みの日にはバイクで遠出もしていた。でも、年齢を重ねるごとに、頼られることが増え、責任も増え、いつのまにか「余裕」は贅沢品になっていた。気づけば日曜日も仕事の予定を入れてしまっていて、「この日くらいは自分のために…」という感覚すら、どこかに置き忘れていた。
若い頃の無理が今になって響いている
学生時代、野球部で鍛えた「根性」は、当時は武器だった。どんなにしんどくても、やりきることが正義だった。でも社会に出て、それを何年も続けていると、武器は凶器になる。ある日、久しぶりに会った同級生に「なんか老けたな」と言われた。鏡を見ると、確かに目の下にクマ、背中も丸まっていた。あのときの根性は、もう今の自分を支えきれない。
独り身だからこそ つい「自分は後でいいや」と思ってしまう
家に帰っても誰もいない。話しかける相手もいない。だから、「今日はこの仕事を片付けてから帰ろう」とか、「夕飯は抜いてもいいや」と、どんどん自分の優先順位を下げてしまう。誰かのために生きているようで、結局「誰のためにもなっていない」日々が続いていく。「自分くらい、後回しでいいよ」って言いながら、本当は誰かに「それでいいの?」って聞いてほしかった。
司法書士という職業が抱える「奉仕」の罠
司法書士は、表立ってスポットライトを浴びる職業ではないけれど、裏方として多くの人の人生に関わる。だからこそ「いい人」でいたい、親身になりたい、役に立ちたいと思ってしまう。でもその奉仕の精神が、いつしか自分を縛る鎖になっていた。自分が頑張れば頑張るほど、周囲の期待は膨らみ、「それくらいやって当然」で返ってくる。そのサイクルが、気づかぬうちに心をすり減らしていく。
クライアント優先の風土が染みついてしまった
「お客さん第一」は、経営者として当たり前の意識かもしれない。でも、その価値観が行き過ぎると、自分や自分の事務所のスタッフをないがしろにすることにもなりかねない。特に地方の小さな事務所では、断ることがイコール「悪」だと受け取られることもある。そう思うと、なおさら断れない。クライアントに振り回されるうちに、自分の仕事の軸すら見失いそうになることがある。
いい人でいたい でも限界は近い
昔、ある依頼人から「こんなに親切な先生は初めてです」と言われた。その言葉が嬉しくて、つい無理を重ねるようになった。でもその後、その依頼人は理不尽なクレームを入れてきて、対応に何時間も費やすことになった。「いい人」は便利な人として使われる危険がある。その時初めて、「限界を超えてまで親切である必要なんてない」と思い始めた。