はんこがない!その瞬間に始まる地獄の一日
「あれ?はんこがないんですけど…」朝一番、事務員さんのその一言で一日が狂い始めた。地方の小さな司法書士事務所で、はんこがないというのは「心臓がない」と同じくらい致命的。机の上には書類が山積みで、提出期限が迫った登記申請が控えている中でのこの事態。まるで出かける直前に家の鍵が見つからない朝のように、焦燥感と後悔だけが広がる。いや、それよりひどいかもしれない。
朝イチの電話で血の気が引く
「今日の10時までに書類を仕上げてください」と言われていた法人登記の案件。先方の担当者から確認の電話が入る頃、僕はすでにデスク周りを荒らしまわっていた。心臓がドクドクする中で、内心では「これ、どう言い訳しよう…」とそればかり考えていた。司法書士って信用が命だから、ミスを出すと一気に評価が下がる。そのプレッシャーに潰されそうになりながら、電話越しでは「はい、大丈夫です」と嘘をつく自分が情けなかった。
「すみません、はんこが見当たりません」
事務員さんが消え入りそうな声で言ったその言葉が、今でも耳に残っている。責める気持ちはない。ないけれど、じゃあこの状況をどう乗り越えればいいのか。彼女は彼女で精一杯やっているのはわかっている。でも、なぜ今なのか。なぜ今なのか。10分前に机の上に置いた記憶があるのに、忽然と消えている。たかがはんこ、されどはんこ。この存在の大きさを、身に染みて思い知った。
慌てて探してもどこにもない現実
書類の束をかき分け、棚の奥、鞄の中、果ては冷蔵庫まで見た。そんなところにあるはずないとわかっていても、可能性を潰していくしかない。しかし、出てこない。焦るほどに視野が狭まり、見落としも増える。おかげで他のファイルをひっくり返し、仕事場がさらにカオスに。もうこの時点で「今日は何も進まないな」と確信した。
事務員さんの動揺と僕の冷や汗
事務員さんの顔が青ざめていくのがわかる。僕も同じ顔をしていたに違いない。冷や汗が首筋を伝っていくのを感じながら、僕はただ黙って探すしかなかった。彼女を責めたところで、状況は好転しない。とはいえ、自分の不注意であれば自分を責められるが、人のミスだとそのやり場のない感情をどこへ向ければいいのか分からなくなる。
「いや、昨日確かにあったはずなんですけど…」
彼女の言い分はもっともだ。昨日の夕方、確かに僕もそのはんこを見た。最後に使用したときはファイルの横に置いていた。その記憶が鮮明すぎて、余計に混乱した。机の引き出しも空けてみたが、そこにもない。彼女の顔には、責任感と申し訳なさ、そして不安が混ざった複雑な表情が浮かんでいた。
焦って探し回るけど余計に時間が溶けていく
「落ち着こう」と思えば思うほど、指先が震え、視界が曇る。焦燥感とはまさにこのこと。ふと時計を見れば、もう提出時間の30分前。頭の中では最悪のシナリオがぐるぐる回り、冷静な判断力を奪っていく。「今日はもうダメかもしれない」と諦めかけたその時——
結局、机の引き出しの奥から出てきたけど…
……ありました。引き出しの奥の奥、なぜか裏返しになって隅っこに。拍子抜けするほどあっけなく見つかったが、見つかったからと言って安堵はしなかった。なぜなら、既に提出期限は目前。この時点で気力も集中力もほぼゼロ。ようやく始まった仕事のスタート地点が、既に気力のゴールだった。
今日という日をネタにできる日が来ると信じて
何とかその後の対応は間に合ったが、僕の心の中ではずっとざらざらした何かが残っていた。こんな日は一日の終わりに焼酎でも飲みたいが、そういう相手もいない。独りで湯船に浸かりながら、今日のドタバタを思い返す。笑い話に変えられる日がくればいい。でも、今はまだムリ。
同業者に愚痴れるだけでも救いになる
この業界、似たようなことを経験した人は多い。SNSで「はんこ事件」とでも検索すれば、少しは慰めになるだろうか。話せる仲間がいるというのは、どれだけ心強いことかと改めて思う。仕事の失敗や小さな事件も、誰かと共有できるだけで少しは楽になる。そう、今こうして書いてるだけでも、少しだけ救われているのかもしれない。
笑い話になるまでは、もう少し時間が必要
どんな失敗も、時間が経てば「ネタ」になる。でもその時間が来るまでは、やっぱりしんどい。今日のことは、正直まだ笑えない。でも、こういう日々を越えていくことこそ、司法書士という仕事の一部だとも思う。きっとこれを読んでくれている誰かも、似たような日を経験しているはずだ。
それでもまた、明日は来る
一日が終わり、机の上を片づけながら、「もうはんこは片時も離さないぞ」と心に誓う。でもまた明日、同じようなことで慌ててるかもしれない。そんな自分にうんざりしつつも、仕事は続いていく。誰かのために、書類を整え、印鑑を押す。ミスや小さな事件があっても、また明日は来る。そしてそれを、また乗り越えていくしかない。