一人が楽だけど一人じゃ満たされない
司法書士という仕事は、基本的に一人で完結することが多い。お客様とのやり取りがあるとはいえ、書類作成や登記申請の作業は黙々と続く。気楽といえば気楽だ。他人のペースに乱されることもないし、好きなように段取りを組める。しかし、ふとした瞬間に「この状態がずっと続くのか」と思ってしまう。独身で、家に帰っても話し相手はいない。テレビの音が、やけに部屋に響く夜。そんなとき、一人は楽だけど、本当は誰かといたいと思ってしまう。
気楽さと寂しさはいつも表裏一体
たとえば、仕事が終わった帰り道。コンビニに寄って晩飯を買い、家に戻る。誰にも会わず、誰にも話しかけられず、一日が終わる。それが日常で、もう慣れてはいる。けれど、疲れているときや心が折れそうな日には、この静けさが妙に重くのしかかってくる。昔はこれが「自由」だと思っていたけど、今は「孤独」に近い。気楽さと寂しさは、背中合わせで存在しているのだ。
仕事終わりのコンビニの灯りに救われる
なぜか、夜のコンビニの光がやさしく見える日がある。店内の暖色の光と、陳列棚に並ぶ色とりどりのパッケージ。それが「人の気配」に見えて、救われる。特に、寒い季節なんかは、あの光の中に入っていくだけでホッとする。誰かと一緒に入るわけじゃない。ただ、それでも「孤独じゃない感じ」がほしいのかもしれない。
誰かに今日を報告したくなる瞬間
「今日は大変だった」とか「ちょっと変なお客さんが来た」とか、誰かに話したいことって、意外と毎日ある。だけど、それを話す相手がいないと、その出来事はどこにも行かず、自分の中にたまっていく。言葉に出すことで整理されるはずの感情も、モヤモヤのまま胸に残る。報告じゃなくて、ただ聞いてくれる人がほしい。それだけで救われる日もあるのだ。
何も話さなくていい時間がいちばん欲しい
若い頃は、誰かと一緒にいるなら盛り上がらなきゃと思っていた。でも、今は違う。会話がなくても、黙って隣に座っていられる人が欲しい。沈黙を埋めようとせず、自然にそこにいてくれる人。忙しさに追われて余裕のない日々のなかで、そういう存在はかけがえがない。
言葉より安心感が先に来る関係とは
友人でも恋人でもない、けれど安心できる人間関係。名前をつけるのが難しいけれど、そういう関係に飢えている。最近は、やたらと人に気を使ってしまう。仕事柄、正確な説明や表現を求められるせいか、プライベートでも言葉を選んでしまう。だからこそ、言葉にしなくても通じ合えるような安心感が、心底欲しくなる。
沈黙が気まずくない相手がほしい
沈黙の時間って、相手との距離を測る目安になる気がする。気まずいと感じるのは、まだ心が落ち着けていない証拠。逆に、沈黙が続いても気にならない人となら、何時間でも一緒にいられる気がする。忙しさや孤独のなかで、そういう関係がどれほど大事かを、年を重ねてやっと実感している。
用事がなくても来てくれる人に憧れる
「何か手伝おうか」じゃなくて、「なんとなく来たよ」と言ってくれるような人。用事があって呼ぶ関係じゃなく、用事がなくても寄ってくれる関係。そんな人がいたら、生活がずいぶん変わる気がする。逆に、自分がそういう存在になれているかと問われると、返答に詰まる。憧れるばかりで、誰かの「ただの居場所」になれていないことが少し寂しい。
司法書士という仕事は孤独になりやすい
司法書士という職業は、思っている以上に「誰かと一緒にやる仕事」ではない。お客様や関係者と協力はするが、基本的には一人で抱える作業が多い。だからこそ、家に帰ってもその「孤独モード」が続く。自分で選んだ道ではあるけれど、やっぱり息が詰まる日もある。
責任の重さと相談できない空気
司法書士の仕事には常に「間違えられない」プレッシャーがある。それなのに、誰かに「これどう思う?」と軽く相談できる雰囲気が少ない。責任の所在がはっきりしているぶん、ミスの不安を誰とも共有できず、どんどん内にこもってしまう。誰かと一緒に働いているつもりでも、実際は「孤独な戦い」をしているのだ。
職業的な立場が感情を抑え込ませる
「士業なんだからしっかりしていなきゃ」と、自分に言い聞かせてしまう癖がある。たまには弱音を吐きたい。でも、感情を出すことが「信頼を失うこと」につながる気がして、無意識に抑えてしまう。だからこそ、職業を超えて「ただの自分」に戻れる時間と相手がほしいと思う。
誰かに甘えたいという気持ちは出せない
誰にも頼れないわけじゃない。でも「頼っていいのか」という迷いが常にある。大人になればなるほど、甘えたくても甘えられない。人に相談する前に「こんなこと言っていいのかな」と考えてしまう。だから、何も聞かずにただ隣にいてくれる存在は、本当にありがたいと思う。