ふと気づけば登記の話しかしていない
ある日ふと、自分の会話の引き出しが極端に狭くなっていることに気づいた。登記の話、書類の話、委任状の話…。相手が誰であっても話題がその辺に収束してしまうのだ。昔はもう少し、野球の話やテレビの話、ちょっとした世間話だってできていた気がする。でも今は、口を開けば「それ、登記簿で確認した方がいいですね」などと反射的に答えてしまう。これは職業病なのか、それとも社会との接点を失った証なのか。自分でもよくわからなくなっている。
雑談ができない自分に驚いた
先日、友人の結婚式に出席したときのこと。久しぶりに会った大学時代の同級生たちが、当時と変わらずワイワイと笑い合っていた。趣味の話、家庭の話、旅行の話…どれもこれも、今の自分には馴染みが薄くなってしまっていた。そんな中で、誰かが不動産を買った話題になった瞬間、私だけがやたらと饒舌になってしまったのだ。「建物表示登記は済んでる?」「金融機関とのやりとりは?」と矢継ぎ早に質問していた自分に気づいた瞬間、強烈な恥ずかしさと空しさが押し寄せてきた。
会話の導入も「この書類がですね…」
朝、事務所に来たときも、事務員さんにかける最初の一言は「昨日の書類ですが…」が定番になっている。たまには「昨日の夕飯、何食べました?」くらい言えればいいのだが、どうも自然に出てこない。電話もそうだ。取引先との挨拶もなく、開口一番「件の登記ですが…」で始めてしまう。効率重視といえばそれまでだが、人間味をどこか置き去りにしてしまっている気がしてならない。
飲み会でも書類の話をしてしまった
数ヶ月前、地元の士業仲間と飲みに行った時のこと。誰かが「最近どう?」と聞いてくれた瞬間、私は「相続登記の申請が溜まってて…」と即答してしまった。周りは苦笑い。せっかくの酒の場で、話す内容が「被相続人の除籍謄本がなかなか取れなくて」とか「登記識別情報が…」とか。いや、誰もそんな話を望んでいないのだ。わかってはいる、わかってはいるのに、他に話すことが思いつかない。この時、自分が完全に“書類おじさん”になっていることを実感した。
登記は大事でも会話の幅は狭まる
司法書士として登記の正確さや書類の整合性にこだわるのは大事だ。しかしそれが日常生活すべてを覆い尽くしてしまうと、やはりどこか歪みが生じてくる。自分という人間が“登記の話をする機械”のように思えてしまう瞬間があるのだ。誰かと話しても、「その話、登記に関係ある?」と無意識にフィルターをかけてしまう。これはもう、立派な職業病だと思う。
専門職の落とし穴とは
専門性が高い仕事をしている人なら、少なからず同じような悩みを持っているかもしれない。医者は健康の話、弁護士は法律の話、会計士は税金の話…。仕事に集中しすぎると、プライベートとの境界が曖昧になり、気がつけば人生そのものが“業務の延長”になってしまうのだ。私の場合、話題の“フィルター”が完全に登記と書類に寄ってしまっている。それ以外のことに興味を持てなくなっていることが、自分でも恐ろしい。
社会との接点がどんどん狭くなる
書類と登記簿の世界にどっぷり浸かっていると、世の中の動きに疎くなる。流行りの音楽も、話題のドラマも、スポーツのニュースも、どこか遠くの話のように感じてしまう。地元の夏祭りがあることすら事務員さんから教えてもらって、「え、そんなのあるんですか」と驚いたこともある。気づかぬうちに、自分だけが別の時間軸で生きているような気分になる。
趣味の話をする時間もなくなった
かつては週末に草野球に行くのが楽しみだった。元野球部ということもあり、グローブとバットを握る時間が何よりのリフレッシュだった。しかし今は、土日も書類の山とにらめっこ。久しぶりにグローブを手に取ったら、革がカサカサになっていて驚いた。趣味に時間を割く余裕がなくなり、結果として会話の引き出しも空っぽになる。何かを話したくても、自分の中に“材料”がないのだ。
書類に囲まれた生活が与える無言のストレス
書類って、見た目以上に精神を削る存在だと思う。無機質で、膨大で、終わりがない。しかもミスが許されないというプレッシャーが常に付きまとう。それらと四六時中向き合っていると、何かを感じる力すら弱ってくる気がする。笑うこと、驚くこと、感動することがどんどん遠くなる。そういう心の機能が退化していくのを、日々感じる。
気づかぬうちに思考まで紙まみれに
最近、自分の考え方までが“書類的”になってきた気がしている。何事も確認、証拠、整合性。人との会話でも、つい「それ、根拠あります?」と聞いてしまいそうになる。人間関係まで、書類のように扱ってしまっているのではないか。笑い話ひとつ取っても、「それ事実ですか?」なんて反応してしまいそうで、自分でも嫌になる。柔らかい発想や感性が、自分からどんどん失われている。
人とのやりとりが「確認書」のようになる
誰かと話すとき、つい文末が「ご確認お願いいたします」で終わりがちだ。友人とのLINEですら「了解です。念のため資料添付しますね」とか。これじゃまるでビジネスメールだ。会話のキャッチボールが、「やりとり」ではなく「書類の回付」になってしまっているのだ。相手はただ笑いたかっただけかもしれないのに、私はそれを“文書”として受け止めてしまっている。悲しいことだ。
言葉がぎこちなくなっていく恐怖
もっと自然に、感情のままに言葉を発せられる人間だったはずなのに。今は何かを話すたびに、「言い間違えてないか」「誤解されないか」「この文言で適切か」といったチェックが入ってしまう。もはや脳内に“自動校正機能”が搭載されてしまったようだ。便利なようでいて、とても不自由。本来の自分を閉じ込めてしまっているような窮屈さを、日々痛感している。
それでも話を聞いてくれる人がいた
唯一の救いは、事務員さんとのささやかな会話だ。彼女は特に司法書士に詳しいわけではないが、私の話を聞いてくれるし、ときに優しいツッコミも入れてくれる。その何気ない一言が、自分にとっては癒しだったりする。登記の話ばかりしてしまう私にも、笑ってくれる人がいる。それだけで、少しだけ人間らしさを保てている気がするのだ。
事務員さんとの会話の救い
ある日、「先生、最近口癖が“この登記ですが”になってますよ」と言われて、思わず笑ってしまった。そういう指摘すら、今の自分にはありがたい。仕事だけに集中していると、自分がどう見えているのかも忘れてしまう。でも彼女の一言で、「ああ、自分まだ人間やってるな」と感じられた。小さな会話が、心の潤滑油になっている。
昔の自分はもう少しバカ話ができた
大学時代、そして野球部時代、私はもっと気楽に笑っていた。くだらないことで盛り上がって、無駄話をするのが楽しかった。今はどうだろう。会話の前に“確認”が来てしまう。冗談より“要点”を優先してしまう。あの頃の感覚を、どこかに置き忘れてきた気がする。だからこそ、今からでも少しずつ取り戻したいと思っている。
野球部の頃のくだらない話
夏の合宿で先輩が隠れてカップラーメン食べてたのを見つけて大騒ぎしたこと。練習中にバットを投げて監督に怒鳴られたこと。くだらないけれど、今でも覚えている。あの頃は、登記簿のことなんて一切考えていなかった。ただただ、目の前のことで笑って、怒って、走っていた。今、自分にそれができるだろうか。いや、できるようになりたい。司法書士である前に、一人の人間として。