仕事は片付いても気持ちは片付かない
毎日、机の上の書類は確かに減っていく。登記が完了すれば法務局から完了証が届き、それを依頼者に渡して一件落着。形式上は「終わった」と言える。だけど、自分の中では何かが残ったままだ。書類上の「完了」は存在しても、自分の感情や考えには「完了確認書」なんて存在しない。終わらせるのは、いつも書類だけ。自分の気持ちは置いてけぼりのまま、次の案件がやってくる。
書類には終わりがあるのに心にはない
司法書士という仕事は、ある意味とてもシステマチックだ。必要な書類を揃え、正確に申請し、決まったルートで完了させる。それが役目だ。でも、心の中の出来事にはそんな「ルート」なんてない。誰かとのやりとりで感じた違和感、納得できなかった会話、謝りたかったけど言えなかった一言。そういうものはいつまでも胸の中に残り、未完了のままくすぶっている。
案件の完了確認書はあっても人生にはない
登記であれば「完了通知書」という明確な書類がある。それを受け取った瞬間、安心感がある。でも、自分の人生の出来事にはそんな「通知」なんて来ない。「あれはもう終わったんだ」と自分で勝手に言い聞かせるしかない。納得できてないのに終わらせるしかない。そうやって無理に区切りをつけて生きていると、どんどん自分がどこにいるのかわからなくなってくる。
終わったことと納得できたことは違う
「終わった」という事実と、「納得できた」という感情はまったく別のものだ。たとえば、昔付き合っていた女性との別れ。形式的には別れていても、自分の中では「なんであのときうまくできなかったんだろう」と何度も反芻してしまう。完了確認書が一枚あれば、「これでいいんだ」と少しは前に進める気がする。でも、それはやっぱり、自分の中でしか出せない書類なんだろうか。
毎日の業務は流れ作業でも感情は積み上がる
日々の仕事は、ある意味で流れ作業だ。依頼を受け、必要書類を確認し、手続きを進める。だけど、関わる人間関係や感情は流れない。むしろ、どんどん積み上がっていく。依頼者の言葉や態度、ちょっとした違和感も、あとからじわじわ響いてくる。そしてその蓄積が、夜の独りの時間に押し寄せてくる。自分が誰のために働いているのか、ふとわからなくなる瞬間がある。
司法書士の仕事は無機質で人間的
書類と数字に囲まれた無機質な仕事だと思われがちだ。でも実際には、とても人間くさい。相続に涙を浮かべる依頼者、不動産登記の裏にある夫婦関係の事情。そういう場面に立ち会うことも多い。だからこそ、こちらも影響を受ける。感情が揺さぶられる。冷静に処理しようとするほど、自分の中で整理が追いつかなくなることもある。まるで感情に蓋をする職業のようだ。
感情の整理に提出先がほしくなるとき
こんな気持ちを、どこに提出すればいいんだろう。依頼者にも、事務員さんにも、話せないことがある。独りで抱え込むしかない感情。たとえば、登記申請の途中で依頼者が急逝したときのこと。「終わらせる」ことが、彼の人生の一部を切り取ってしまうようで、胸が痛んだ。でも仕事は待ってくれない。そんなとき、心の感情を受け取ってくれる「窓口」があればいいのにと思う。
完了してるのに何かが引っかかる
案件としては完了している。書類も返した。法務局も問題ない。でも、なぜかスッキリしない。忘れたつもりでも、ふとした瞬間に思い出す。たとえば、依頼者が「また何かあったら頼みますね」と笑顔で言っていた声。それがもう聞けないと思うと、妙に胸に刺さる。感情の方は、まだ完了していなかった。こういう引っかかりを、仕事の中でどう処理していけばいいのか、いまだにわからない。