なんとかならないですかに潰されそうな日々

なんとかならないですかに潰されそうな日々

聞き飽きた言葉に心がすり減る

「なんとかならないですか?」――この一言が、日に何度も胸に刺さる。別に怒鳴られるわけでも、暴言を吐かれるわけでもない。けれどこの言葉の裏にある「あなたがなんとかしてくれなきゃ困る」という無言の圧力が、じわじわと心を蝕んでいく。司法書士という仕事柄、依頼人の期待や不安、苛立ちが直接飛んでくる。特に地方の一人事務所では、逃げ場もない。声を荒げることもできず、ただひたすらに「なんとかしてあげなきゃ」と思いながら、胃をきゅっと締めつけて仕事をこなす日々が続いている。

依頼人の一言が胸に刺さるとき

「なんとかしてくださいよ」――その口調に怒気があるわけではない。むしろ申し訳なさそうに、困った顔で言われることが多い。でも、その優しげな声に、なぜか一番追い詰められる。例えば相続登記で揉めている依頼者が、兄弟との関係に疲れ果てて頼ってくるとき。「先生、なんとかならないですか」その視線には、もはや自分では無理だという諦めが浮かんでいる。その一言が、自分の肩にすべての責任を乗せてくるようで、思わず黙り込んでしまう。気の利いた返答なんて浮かばない。ただ「…やってみます」と小さく答えるだけ。

「なんとかしてくださいよ」が責任を押し付けてくる

「プロだから」と言われれば、確かにそうかもしれない。でも、プロでも人間だ。時にはどうにもならないこともある。法律にできることには限界があるし、人間関係の泥沼には法的手続きでは手が届かないことも多い。それでも、「先生ならどうにかしてくれる」と信じ切ったような目を向けられると、断れない。実際、頼られるのは嫌じゃない。嬉しい部分もある。でも、その“頼られすぎ”が重すぎると、背筋がきしむ。何度も深呼吸して、気持ちを立て直して、またパソコンの前に戻る。それが現実。

正論でも優しさでもない要求の圧力

「なんとかならないですか」は、時に正論よりもキツい。優しさの仮面をかぶった圧力だ。本人に悪気がないのもわかってる。だけど、その一言が積み重なっていくと、自分の中の「もう無理だ」という声を無視できなくなってくる。先日は登記の期限が迫っている案件で、書類の不備が判明。依頼人に説明すると「え、それって先生のほうでどうにかならないですか?」と返ってきた。一瞬だけ怒りがこみ上げたが、すぐに飲み込んだ。その一言の裏には、不安と焦りがあることも、わかってる。でも、それでも、つらいんだよ。

独立してからずっと逃げられない重圧

開業して十数年。最初は「自由にやれる」「やりがいがある」と思っていた。だけど今は、どちらかというと「自由に押しつぶされている」感覚が強い。誰にも怒られないけど、誰も助けてくれない。トラブルが起きたら、自分がすべて責任を取る。それが当たり前になっている。でも、その“当たり前”の重さを、誰かと分け合えるわけじゃない。独立して得た自由の代わりに、心のよりどころを手放してしまった気がしてならない。

誰かの“最後の砦”になる重さ

「もう誰にも相談できなくて」そう言って来る依頼者は、たいていボロボロだ。家族と絶縁状態だったり、借金問題を抱えていたり、精神的に追い詰められていたり。その人にとって、自分が“最後の相談相手”なのだろう。嬉しいと同時に、ぞっとする。そんな立場に、果たして自分はふさわしいのかと。もし間違った判断をしてしまったら、その人の人生をさらに悪い方向へ導いてしまうかもしれない。そんな不安がいつも背中にこびりついている。

選ばれたのか押し付けられたのか分からなくなる夜

責任ある仕事に就いているという自負はある。でも、それが“選ばれた結果”なのか、“誰もやらないから自分がやるしかなかっただけ”なのか、分からなくなる夜がある。時には「この仕事向いてないのかも」と思うことすらある。疲れ果てた深夜、誰もいない事務所で書類に囲まれながら、「もう全部投げ出したい」と思うことが、年に何度かある。けれど、翌朝にはまたいつも通りの自分に戻っているのだから、不思議なものだ。

職場でただ一人の味方は事務員さん

事務員の彼女は、うちの事務所にとって“唯一の救い”かもしれない。気の利いた雑談、ちょっとした気遣い、お菓子の差し入れ。そのひとつひとつに、何度も救われている。文句ひとつ言わず、どんなに忙しい日でも淡々と仕事をこなしてくれる。もし彼女が辞めてしまったら、正直、うちは回らない。それくらい頼りにしている。でも、それをちゃんと伝えられない自分がいる。

事務員との距離感が唯一の救い

年齢も自分より少し若く、礼儀正しく、仕事も丁寧。雑談も程よくて、気が楽だ。変に馴れ馴れしいこともなければ、冷たくされることもない。言ってみれば、“心の避難場所”だ。でも、あまりに頼りすぎてはいけないと、自分に言い聞かせてもいる。プライベートまで踏み込むわけにもいかず、気持ちのバランスが難しい。それでも、朝「おはようございます」と明るい声を聞くだけで、今日もなんとかやれそうだと思えてくる。

彼女の明るさに何度も助けられている

先日、立て続けにクレーム対応があって疲弊していた日、彼女が「先生、これ差し入れです」とコンビニのチョコを置いてくれた。それだけで心がほぐれた。「なんでこんなに疲れてること、わかるんだろう」そう思いながら、泣きそうになった。彼女は笑って「疲れたときは甘いものです」と言って去っていった。あのときのあの一言で、救われたのは事実だ。

でも感謝を口にできない不器用さ

感謝してるのに、照れくさくて言葉にできない。ありがとうと言えばいいのに、つい「じゃあこれ処理お願いね」と業務的な話にすり替えてしまう。そんな自分が嫌になる。人間関係、ほんとに苦手だ。仕事はきちんとこなす。でも、心のやり取りになると、急に自信がなくなる。元野球部で、声だけはでかかったけど、気持ちを伝えるのは昔から苦手だった。

それでも明日も仕事はやってくる

どれだけ愚痴をこぼしても、朝はやってくる。依頼人も、法務局も、トラブルも、待ってはくれない。だからやるしかない。それが自営業の現実だ。正直、逃げ出したい日もあるけど、逃げ出せない。責任感なんて言葉では片付けられない感情で、なんとか踏みとどまっている。自分を奮い立たせる材料は、もう“意地”しか残ってないのかもしれない。

ふとした瞬間に思い出す初心

たまに古いノートを見返す。開業当初に書いた目標。「地域の人の役に立てる司法書士になる」と大きな字で書いてあった。その頃の自分は、もっとまっすぐだった。まだ疲れも知らず、失望も味わっていなかった。あの頃の自分に今の自分を見せたら、がっかりされるかもしれない。でも、全部投げ出さずにここまで続けてきたことだけは、胸を張れる気もする。

「誰かの役に立ちたかった」あの日の気持ち

きっかけは小さなことだった。親戚の相続で困っていたとき、手続きしてくれた司法書士の先生が、すごく丁寧に対応してくれて、家族が本当に安心していた。あれがなかったら、この仕事に興味なんて持たなかった。そんな初心を忘れていた。今、自分も誰かにとっての“あのときの安心”になれているのだろうか。もし少しでもなれているなら、まだ続ける意味はあるのかもしれない。

諦めない自分に少しだけ救われる

きつい、つらい、しんどい、もう嫌だ――それでも、諦めずに朝にはまた机に向かっている自分がいる。それは案外すごいことなのかもしれない。誰にも褒められなくても、誰も気づいてくれなくても、自分だけは自分のがんばりを知っている。そんな風に、ほんの少しだけでも思える日がある限り、なんとかやっていけるのかもしれない。いや、やっていくしかないのかもしれない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。