今日も帰宅が深夜――終わりの見えない日々
時計の針が23時を回る頃、ようやく一息つける。けれど、そこから帰宅しても寝るだけ。そんな日々がもう何年も続いている。司法書士という仕事は、華やかに見えるかもしれないが、実際は地味で、そして果てしない。誰かに相談されれば断れず、トラブルがあれば対応せざるを得ない。自分で選んだ道とはいえ、「いつまでこの暮らしを続けるのか」と、ふと我に返る瞬間がある。夜の静けさが、そんな弱音をそっと浮かび上がらせる。
働いても働いても終わらない業務
朝から晩まで、ひとつ片付けてもまた次の仕事が待っている。依頼者からの電話やメール、登記手続き、書類作成、時には相続の相談で感情の整理のお手伝いまで。終わりが見えない日々に、心がじわじわと削られていく。予定表は真っ黒。どこかで崩れれば、雪崩のようにすべてが崩壊する予感すらある。
「自分しかできない」仕事の重圧
登記や裁判所への書類提出など、司法書士にしかできない手続きが山のようにある。「これは他の人には頼めない」そう思う案件が積み重なると、気がつけばひとりで全部背負ってしまっている。事務員に任せることもできるが、結局「自分がやった方が早いし確実だ」と思ってしまう性分だ。完璧を目指すがゆえに、自分の首を絞めているのは自分かもしれない。
ミスが許されない職責に押しつぶされそうになる
登記には正確性が命だ。一文字のミスが大きなトラブルに発展することもある。そのプレッシャーは、目に見えない鎖のように心を縛ってくる。仕事が深夜に及んでも、集中力を切らすわけにはいかない。クタクタに疲れた頭で確認作業を繰り返す。そんな時、「人間って、どこまでがんばれるんだろう」と思ってしまう。
タイムカードのない世界に生きて
自営業には終業ベルがない。タイムカードも、定時退社もない。だからこそ、自分でブレーキをかけなければ、どこまでも走り続けてしまう。気がつけば深夜0時を超えている。誰にも咎められない代わりに、誰も止めてくれない。その自由さが、時には過酷に感じる。
何時に終わっても、誰にも咎められない孤独
夜中に一人で事務所の照明を落とすとき、ふと寂しさがこみ上げる。誰も「遅くまでお疲れさま」とは言ってくれない。ひとりの仕事、一国一城の主、そんな響きに憧れていた若い頃が、今では少し遠く感じられる。自分が自分を労わらない限り、誰も気づいてはくれないのだ。
夜道を歩きながら考えること
事務所からの帰り道、真っ暗な田舎道を歩く時間が、唯一自分と向き合える時間かもしれない。星がきれいだとか、夜風が気持ちいいとか、そんな感覚はもうずいぶん前にどこかへ消えてしまった。ただ、黙って歩いて、家にたどり着くことだけを考えている。
「これ、誰のための仕事なんだろう」
あるとき、ふと立ち止まって思った。「この仕事って、誰のためなんだろう」と。依頼者のため?自分のため?それとも、生活のため?正直なところ、今は生活をつなぐだけで精一杯だ。理想を語っていた頃の自分が、少しうらやましい。
依頼者の笑顔と、自分のすり減り具合のギャップ
「ありがとう、助かりました」と言われると、やってよかったと思える瞬間がある。でもその一方で、心と体が削られている実感もある。依頼者の安心の裏に、自分の睡眠や自由時間が消えていく。そのギャップに、苦笑いしかできない夜もある。
コンビニの灯りが唯一の味方
夜道の途中にあるコンビニの明かりは、妙にほっとする存在だ。人の気配があるだけで、なぜか安心する。夜食を買って、レジで少しだけ交わす店員との会話が、唯一の「人とのやりとり」になることもある。
深夜に買うカップ麺が唯一のご褒美
自宅に帰って、静まり返った部屋でカップ麺をすすっていると、「今日もがんばったな」と少しだけ思える。大したことじゃないけど、それが今の自分の精一杯の癒しだ。豪華なディナーより、この一杯の方が心に沁みるときがある。
事務員さんに先に帰ってもらう罪悪感
うちの事務員さんは、よく働いてくれる。だからこそ、遅くまで引き留めるのは気が引ける。できるだけ早く帰ってもらうようにしているが、ひとりになった事務所は一層静かで、余計に寂しさが増す。
「お疲れさまでした」と言われて心が痛む
彼女が帰るときに言う「お疲れさまでした」が、まるで自分に刺さる刃のように感じることがある。「先生も早く帰ってくださいね」と言われても、「まだやることがあるから」と笑って返す自分が情けない。
本当は一緒にご飯でも行きたいけれど
どこかで「一緒にご飯でも」と思うこともある。でも、立場もあるし、タイミングもないし、結局言い出せない。たぶん、誘っても断られるのが怖いんだ。そんなことを考えてる自分に、少し腹が立つ。
SNSを開いても、誰にも言えない愚痴
ふとした時間にSNSを覗く。友人や同業者の投稿が眩しく見える。充実した休日や家族との時間。自分にはないものばかりが並んでいる気がして、そっと画面を閉じる。
華やかな世界との落差
「リア充」なんて言葉を聞くと、なんだか遠い世界の話に思える。自分の生活は、夜に帰ってきて、少しだけテレビをつけて、そのまま寝るだけ。SNSの中の世界と、自分の現実とのギャップに、何とも言えない虚しさが込み上げる。
「いいね」が欲しいんじゃない、「わかるよ」が欲しい
本音を言えば、「いいね」なんていらない。ただ「わかるよ」「俺もそうだよ」って言ってくれる誰かがいればいい。共感を求めることすら恥ずかしいと思ってしまう性格だけど、それでも人恋しくなる夜はある。
それでもやめられない理由
辞めたら楽になるんじゃないか。そんな考えが頭をよぎることは、正直何度もあった。それでも、なぜかやめられない。きっと、ほんの小さな嬉しさや誰かの感謝の言葉が、心のどこかで支えになっているからだ。
ほんの一言の「ありがとう」が支えになる
ある日、年配の依頼者に「あなたにお願いしてよかった」と涙ぐまれて言われたことがあった。その一言で、何日分もの疲れが吹き飛んだ気がした。そんな瞬間があるから、また次の日も机に向かってしまうのだと思う。
だからまた、今日も帰れない
心では「早く帰りたい」と思っているのに、気づけばパソコンを開いて、また一件分の書類に取りかかっている。帰宅が深夜になるのは、たぶん自分のせいでもある。でもそれが、この仕事を続ける理由でもあるのかもしれない。